9 十字架の道行き

主は、死刑の道具である十字架を見て心の中で言います。「ああ、私の愛するもの、私の渇望を満たすもの、あなたを抱きしめるために私のところに来なさい。私の両手があなたの上に付けられるとき、人類の永遠の和睦のための犠牲として永遠の御父に受け入れてもらいます。あなたの上で死ぬために、私は天から降り、死ぬ運命にある肉体を私のものにしました。あなたは、私の敵全てを負かす牧杖であり、選ばれた人々を天国に入れるための鍵であり、アダムの罪ある息子たちが慈悲を見出すための聖所です。貧しい彼らに与える財産を治める宝庫です。私の友達が人々に与える不名誉とけん責を喜んで求め、受け取り、先に行く私の跡について来なさい。御父である永遠の神を天地の主として崇め、み旨に私自身を任せ、この十字架の材木を私の無実、有限の人性の犠牲のため肩にかけ、人々の救いのため喜んで受け取ります。今日から、人々はもはや召し使いではなく、私と共に、あなたの王国の息子や娘となり、相続人となりますように」(ローマ八・十七)。啓示と知恵により、御母は、主をありありと見ることができ、主の心のなかの御祈りを全部聞きとりました。十字架が主に掛けられたとたん、無限の価値が与えられたことも分りました。御子に倣い、聖母も十字架を受け取り、救い主と共に贖うものとして祈りを捧げました。主の死刑宣告を大声で伝える声が聞こえると、聖母は、それと反対に、聖なる御子を賛美する歌を歌いました。主に倣い、苦しみを甘受し、身体の休息、栄養、睡眠を全部放棄し、霊魂の安らぎさえ求めませんでした。神が休憩を下さったときだけ感謝してお受けし、悲しみと苦しみをもっと受けるために回復することとなりました。ユダヤ人の悪意に満ちた行動、人類の窮乏と将来の滅亡や脅威や人々の忘恩について、他の人たちよりも深く感じていたからです。死刑執行者たちは荒々しく主を引きずります。主は、よろよろし何度も倒れます。石の敷かれた道に御膝がうち当たるたびに傷が大きく広がります。重い十字架も、御肩に深くくいこみます。倒れるとき、十字架が御頭にぶつかり、茨の冠の棘が深く突き刺さります。死刑執行者たちは、嘲り、呪い、唾を吐きかけ、道の土砂を主の御顔に投げつけ、御目を覆います。彼らは主を早く殺そうと、主に息つく暇も与えません。聖母は、聖ヨハネと信心深い婦人たちと共に群衆の渦中を進んでおられましたが、怒涛のような群衆の中で、主の近くに行くことが出来ません。天使たちの導きにより、聖母一行は、主と面会することができます。主と御母は、お互いに顔を合わせ、お互いの悲しみを分かち合います。しかし、それは一瞬のことであり、話すことはできません。死刑執行者たちは先を急がせます。聖母は心のなかで主にお願いします。「あなた自身が十字架を持ち上げることはできません。主が誰かの助けが得られるように、残酷な死刑執行者たちに考えさせるように」。この願いは聞き入れられ、キレネ人のシモンが主とともに十字架を担がされます(マタイ二十七・三十二)。心のなかで主に話しかけます。「私の子である永遠の神、私の目の光、霊魂の命よ、アダムの娘である私が十字架を持ち上げ、担ぐことができないという私の苦しみを犠牲として受け取ってください。あなたは人類を愛するために十字架の上で彼らのために命を捧げます。私もあなたを愛するために、あなたに倣い、彼らのために命を捧げます。ああ、罪と正義の仲介者よ、さんざん苦しみを与えられ、恐るべき侮辱を受けても、慈悲を願う方よ、ああ、あなたの愛は何と限りがないことか!あなたは、これほどの無限の苦しみと侮辱を赦し、より多くの功徳を与えることを望んでいます。人々を滅びから救うために生贄になるあなたに従い、人々の心に訴えるものは誰ですか?」