第二部 二章 奉献のすぐれた点

第二章 奉献のすぐれた点

この信心が、どれほどすぐれているかを完全にあなたに教えるため、わたしは、天の知恵にみたされることを望みます。とにかく、そのわずかの点だけふれることにします。このようにして、マリアを通じて、自分をイエズスに奉献することは、父である神にならうことになります。なぜなら、おん父は、マリアを通じておん子をわたしたちにお与えになったからです。それにイエズスは、ご自分がなさったように、わたしたちもするようにとお手本をお示しになりました。それで、イエズスは、わたしたちも、イエズスがお通りになったのと同じ道を、すなわち、マリアを通じて、ご自分に来るようにと招いておられるのです。また、それは、聖霊にならうことになります。聖霊は、マリアを通じてだけ、ご自分のめぐみと賜とをお与えくださいます。聖ベルナルドは、こう言っています。「恵みがわたしたちに届いたのと同じ運河を通って、その泉である神に戻るのは、当然なことではありませんか」。マリアを通じて、イエズスのところに行くのは、イエズスに、大きな光栄を帰すことになります。すなわち、それは、犯した罪のために、わたしたちが、無限に聖なるお方であるイエズスに直接近づく値打ちがないものであることを示すことになります。それで、聖なるおん母が、わたしたちの仲介者であるイエズスのみ前に弁護者と仲介者となってくださる必要があるのです。このようにすることで、わたしたちは、イエズスをわたしたちの兄弟とも仲介者とも仰ぎますが、それと同時に、イエズスが、わたしたちの神であり、裁き主であることを、けんそんに認めることになります。こうして、わたしたちは、けんそんの徳を守りますが、けんそんこそ、神のみこころを奪うものです。マリアを通して自分をイエズスに奉献することは、わたしたちの善い行いをマリアのおん手に、ゆだねることになります。わたしたちの行いは善いもののようにみえますが、そのじつ、多くの場合、あまりにも汚れていて、神はそれを受け入れ、ご自分の喜びとする値打ちがありません。なぜなら、神はどんな小さな欠点も見通しておられるからです。それで、わたしたちは、善い母であるマリアに向かって、わたしたちの、つまらない、おくりものを受け入れて、これを清め、聖なるもの、値打ちがあるもの、美しいものとして、神に受け入れやすくしてくださるように願うのです。ひとりの百姓が王さまに負債を支払うために、傷のあるリンゴを捧げるとしたら、それは、なんの値打ちもありません。わたしたちのあわれな霊魂の実も同じことです。天のおん父の友情と喜びを得るのに、あの傷のあるリンゴよりも、ずっと値打ちが少ないのです。でも、あの百姓に知恵があるなら、女王のよい心に訴えるでしょう。そうすると、女王は、かの百姓に対して愛情を感じ、王に対する尊敬のために捧げられた果物から、悪いところを切りとって、善い所を花で飾った黄金のおぼんの上において、王に捧げるなら、王は、かの百姓に対して好意を示す女王の手から、そのおくりものを受け入れるに、ちがいありません。聖ベルナルドは次のように教えています。「なにか小さいものを神にささげたいとき、断られたくないと望むなら、マリアのおん手を通じて捧げなさい」と。ああ主よ、わたしたちの善い行いは、たいしたものではありません。それで、まことの信心が教えるように、これらの善い行いを、マリアにおまかせすることは、正しいと思います。わたしたちが、マリアの名誉のために、もっているものを全部おささげするなら、無限に寛大であるマリアは、どれほど報いてくださるでしょう。わたしたちが、マリアに卵一個を捧げるなら、もっと寛大なマリアは、牛一匹をわたしたちにくださるでしょう。つまり、マリアは、ご自分を完全に、功徳も善徳も全部与えてくださって、ご自分の愛徳の黄金のお盆の上に、わたしたちの、おくりものをのせてくださるでしょう。また昔、レベッカがヤコブにしたように、ご自分の長男で、おんひとり子イエズス・キリストの貴重な美しい服をきせてくださるでしょう。この服は、イエズスの功徳にあたるもので、マリアが保存してくださっています。それで、わたしたちがマリアのどれいと、しもべとして、マリアのみ栄えのために、すべてのものを捧げたのなら、その二倍のものをマリアから頂くことになります。つまり、イエズスとマリアの服と飾りと香料と功徳を豊かに受けることになります。イエズスとマリアのどれいになった人は、自分のものをすべて捧げ、その奉献を忠実に守るとき、マリアは、その人の魂を、どれほど富ませてくださることでしょう。聖母に対する奉献をこんなふうにするとしたら、他人に対する愛徳を最高度まで守ることになります。つまり、わたしたちがもっている最も貴重なものを全部マリアにまかせるのですから、マリアは、それを生きている人と亡くなった人の利益のために自由に使うことがおできになります。まことの信心が教えるように、わたしたちの恵みと功徳と善徳をマリアにまかせるとき、これらを安全に保つことになります。つまり、わたしたちは、マリアに、こんなふうに言うことになります。「わたしの愛する天の母よ、わたしが、おん子イエズスの恵みによってすることのできた善いことを、あなたのおん手におまかせします。どうぞ、おうけとりください。わたしは弱くて、忍耐強くないし、わたしの霊的敵は多く、悪意にみち、昼となく、夜となく、わたしを攻撃しますから、わたしは、自分の力では自分を守ることができません。わたしは毎日、レバノンの糸杉のような強い人が倒れ、また、太陽にまで、まいあがっていた鷲が夜の鳥のようになってしまうのを毎日見ています。また、千人の義人が、私の左に、一万人もの人が、わたしの右に倒れていくのもみています。もっとも力づよい姫ぎみよ、わたしが倒れないように支えてください。わたしの財産が盗まれないように守ってください。わたしは、あなたの力を知っています。このためにこそ、あなたに完全にわが身をおまかせします。あなたは、あなたにまかせた人をひとりも失われるのをお許しになりません。あなたは強いお方ですから、だれも、あなたを攻撃して、あずかったものを奪い取ることができません」。聖ベルナルドの言葉をききましょう。「マリアに従うなら、迷うことはありません。マリアを探すなら、失望することはありません。マリアを考えるなら、まちがいません。マリアが支えてくださるなら、倒れることはありません。マリアに導かれるなら、疲れる心配はありません。マリアが守ってくださるなら、目的地に着くでしょう。マリアは、おん子の、いきどおりをやわらげ、悪魔に損害を加えさせません。マリアは、その子らの善徳を守り、功徳を保持し、神の恵みのうちに生きることを助けます」。以上は聖ベルナルドの言葉です。この言葉によって、わたしが前に言ったことが確認できます。この信心を行うためには、この信心こそ神の恵みを守り、ふやすための確かな方法であると考えただけで、この信心を熱烈に行う必要を感じなければならないのです。この信心のおかげで、霊魂は神の子らの自由を得て、実際に自由になります。わたしたちが、自発的に愛のためにマリアのどれいになるなら、この愛すべき姫ぎみは、報いとして、わたしたちの心を広げ、神のおきての道を巨人の足どりをもって進ませてくださるでしょう。この信心は、嫌気、悲しみ、小心を遠ざけます。じじつイエズスご自身、イエズスのアグネス・シスター(神のしもべアグネス・ド・ランジェアク)に、この信心こそ、かの女が感じていた沢山の苦しみと、不安から、ぬけ出る安全な道であると、教えてくださいました。イエズスは「わたしの母のどれいになりなさい」と、おおせになったのです。じじつこのシスターは、いわれたとおりにして、すべての悩みが消えてしまいました。この信心の重大さを示すためには、教皇たちの大勅書と免償、これを許可した司教たちの教令、およびこの信心のために設立された信心会、沢山の聖人たちと敬虔な人たちの手本について話すのがよいと思いますが、しかし、長くならないために、これをぬかします。