第二部 一章 完全な奉献

第一章 完全な奉献

聖母マリアに対するまことの信心は、どれいのように完全に自分をマリアに与え、マリアを通じてイエズスに与えることにあります。まことの信心は、マリアと共に、マリアのうちに、マリアを通じて、マリアのために、すべてをすることを教えます。このことを、次に説明しましょう。特別な日を選んで、自発的に、そして、愛のために、何も恐れず、何も保留せず、完全に自分を捧げ、奉献し、また、自分を犠牲にしなければなりません。完全に与えるといえば、体も、霊魂も、家も、家庭も、また、利益のような外部的財産も、孤独、恵み、善徳、慰めのような霊魂の内的富も全てを含めています。この信心によって、人の霊魂は、どの修道会にも要求されていない犠牲をもって、マリアを通じ、自分をイエズスに捧げます。この奉献によって、わたしたち自身と、祈りと、ほどこし、苦業や、つぐないの価値の所有権をイエズスに捧げます。すべてを聖母にまかせるのですから、祈りや、つぐないについて、自分では何もきめず、これをマリアにまかせます。マリアは、ご存知の完全な方法で、それを神のより大きなみ栄えのために、適当にお使いになります。善い行いは、つぐないにもなるし、また恵みを願うことにもなります。この功徳を全部マリアにまかせます。しかし、この奉献は誓願ではありませんから、それをしなくても罪にはなりません。しかし、マリアにすべてを捧げたのですから、わたしたちは、もうそれについてきめる権利を放棄します。そうすれば、マリアは、その善い行いの功徳を煉獄の霊魂を解放するためとか、罪人を改心に導くために使うことがおできになります。わたしたちの功徳も、こうしてマリアのみ手にゆだねられます。それは、マリアが、これを保存し、ふやし、より値打ちのあるものにしてくださるためです。げんみつに言えば、わたしたちの恵みの功徳も、光栄の功徳も直接人にゆずれるようなものでないからです。すなわち、わたしたちが祈りと、善い行いをマリアにまかせるときには、マリアは、これをお望みの者のために使うことがおできになるのです。こうして、すべてをマリアにおまかせして後、もし、わたしたちが、煉獄のある霊魂を助けたり、ある罪人を救ったり、あるいは、祈りや、苦業や、ほどこしや、犠牲をもって、ある友人、または、ある敵の利益のために役立てたいと望むときは、まずマリアの許可を願い、マリアがきめてくださることに、まかせねばなりません。わたしたちは、マリアが、それらを、どのようにお使いになるかを知る必要はありません。でも、安心しましょう、わたしたちの善い行いを、マリアが神のより大きなみ栄えのためにお使いになるのは確実ですから。神ご自身さえも、わたしたちに、ご自分のおくりものと恵みを与えるために、マリアのおん手を通じてなさるのですから。まことおの信心は、わたしたちを、どれいであるかのように、マリアに奉献することにあります。どれい制度には、三つの種類があります。第一のものは、自然によるもので、善い人も悪い人も、すべての人は、生まれながら神のどれいです。第二のものは、強制的などれいです。これは、悪魔と亡びた人々のためのどれい制度です。第三のものは、自発的に、愛のためにどれいになることです。これに属する人々は、マリアを通じて、自分を神に奉献しなければならないのです。これは、被造物が創り主に自分を奉献する最も完全な方法です。どれいと、”しもべ”との間には、大きな区別があります。しもべは、奉仕のために給料をうけますが、どれいは、それを受けません。それにひきかえ、しもべは、望むときに自由に主人から離れることができ、それに、奉仕は、ある期間のためだけです。これと異なり、どれいは、主人の所有物であるため、主人から離れることはできません。しもべは、また、生死の自分の権利を決して主人にゆずりません。かえって、どれいは、完全に主人に従属し、主人は、どれいを殺すことさえも認められていました。キリスト信者の間では、このようなどれい制度は認められていません。しかし、異教徒と偶像崇拝者では、それを認めています。洗礼をうけて、悪魔のどれい制度から解放されてのち、自分を愛のどれいとして、マリアを通じて、自分を完全にイエズスに奉献する人は、なんと幸せな者でしょう。