第一部 二章 救いの歴史におけるマリアの役わり

第二章 救いの歴史におけるマリアの役わり

従って、聖人となるための必要な恵みを頂くために、やさしい方法を見つけることはたいせつです。そのやさしい方法こそ、わたしは教えてあげたいのです。まず、神の恵みをみつけるためには、マリアをみつけなければなりません。じじつ、マリアだけが、ご自分のためと、人間の全ての人のために、神のみ恵みを得ました。それは、太祖たちも、預言者たちも、旧約時代のどんな聖人もみつけ得なかった恵みです。マリアはすべての恵みの与え主である、あがない主に、肉体と命を与えられたのです。そのためにこそ、わたしたちは、聖マリアのことを恵みのおん母と呼びます。父である神は、すべての完全なおくりものと、恵みの根本的な泉であります。神はマリアに、おん子を与えることをもってすべての恵みもお与えになりました。聖ベルナルドが、いっているように、マリアは、イエズスにおいて、そして、イエズスと共に、神のみ旨さえもまかせられたのです。神は、マリアをその恵みの宝倉の責任者、すなわち、すべての恵みを管理し、分配するものとして選んでくださいました。そのために、すべての、これらの、たまものは、マリアのみ手を通して与えられます。聖ベルナルディーノによると、マリアは、天のおん父の恵みと、イエズス・キリストの功徳と聖霊のたまものを、ご自分が望む人に、お望みのままに、お望みの時に、お望みになるはかりに従って分配することができます。自然の段階では、子どもに父と母が必要でありますが、同様に、超自然界の段階においても、教会のまことの子どもにそれが必要です。すなわち、神を父に、マリアを母に持たねばならないのです。神を父として持っていると誇りながらも、マリアに対する本当の孝心に欠けているなら、その人は悪魔を父としている、うそつきになります。マリアは、選ばれた人たちのかしらである、イエズス・キリストの母となられたように、この頭の肢体であるキリストの母でもなければなりません。事実、どんな母も、体のない頭は生まないし、頭のない体も生まれないのです。従って、イエズス・キリストの「恵みと真理にみちた」肢体となりたい人は、イエズスの恵みを通して、マリアから形づくられねばなりません。この恵みをマリアが完全な程度にもっておられる理由は、すなわち、イエズス・キリストの肢体であり、マリアの本当の子どもである人々にそれを分け与えるためです。聖霊は、マリアをご自分の花嫁として選び、マリアのうちに、マリアを通して、マリアから、その傑作である人となられたみ言葉イエズスを、この世にもたらしました。聖霊がマリアから決して離別しなかったので、今でも、毎日マリアのうちに、マリアを通じて、キリスト者を生みます。それは、不思議な、しかも本当の方法によってであります。神は、マリアに、その子らである人々の霊魂を養い、そして、神のいのちに成長させる特別な能力をお与えになりました。聖アウグスティヌスによれば、わたしたちは地上にいるあいだ、マリアのご胎内に、霊的にとじこめられています。マリアが永遠のいのちのためにお生みになる時に、はじめて光を見るようになります。母の胎内にいる子が母を通じて生きているように、神の子どもたちも、霊的かてと、その力のすべて、マリアから受けています。マリアだけ、おん父は「わたしの娘よ、ヤコブに住まいを定めよ」とおおせになりました。すなわち、ヤコブによって示されている、わたしの選ばれた人々の中に、住まいを定めよと。また、おん子もマリアにおおせられます、「私の母よ、イスラエルの所有地に、すなわち、わたしの選んだ人々を自分の遺産として受けなさいと。聖霊もまた、マリアに向かって、おおせになっています。「わたしの忠実な花嫁よ、光栄にみちた民、すなわち、わたしの選んだ者の所有地に根をおろしなさい」(シラの書24・8と12参照)と。したがって、神のみ心にかなった選ばれた人々は、マリアを自分の住まい、すなわち、自分の魂の中に歓迎し、マリアがその中で深いけんそん、熱烈な愛徳、およびすべての善徳の根をおろすように、まかせなければなりません。聖アウグスティヌスはマリアのことを、「神のかたどり」、すなわち、神の生きた、”鋳型“と呼んでいますが、実際にそうです。なぜなら、マリアのうちにだけ、神が人間に形づくられ、神としての特長を、そのまま保ちながら、本当に人間となられたからです。同様に、マリアにおいてのみ、人間は、実際に神性にあずかることができます。もちろん、人性がイエズス・キリストの恵みによって可能な程度にです。彫刻家は、立像または胸像をつくるために、二つの方法を使うことができます。一つは、形のない固い材料に、のみ、または、他の適当な道具を用いてする方法で、もう一つは、鋳型をもってする方法です。第一の方法は、長くかかり、また、むずかしく、容易にまちがいます。なぜなら、かなづちや、のみで、まちがった叩きかたをすれば、全部を駄目にする危険があるからです。第二の方法を使えば、かえって、早くでき、簡単で、むずかしくもありません。この方法を用いたら、苦労もなく、また、費用も安くてできます。それは、もちろん、鋳型が完全であり、作ろうと思っている像を忠実にあらわし、使う材料が適正であって、やわらかいという条件のもとにです。まことの人間であり、まことの神であるお方、すなわち、イエズス・キリストを完全に、ご託身によって形づくるために、聖霊によって準備された偉大な鋳型は、神の恵みによって、マリアであります。マリアであるこの鋳型には、神の特長が一つも不足することがありません。従ってこの鋳型に入り、形づくられるままに、まかせる人は、イエズスの霊的な姿をとるようになります。そうなるために、これは、やさしい方法で、人間の弱さに適しています。たいした苦労も、悩みもなく、また、だまされる心配のない安全な方法です。なぜなら、悪魔は、これに干渉することも、マリアがおられるところに、入ることもできないからです。また、マリアは、無原罪のお方で、どんな小さな罪の汚れもないお方だからです。自分の技術に信頼する彫刻家のように、一般的なふつうの方法で要請される人と、単純で、従いやすく、けんそんで、自分に信頼しないで、マリアにすべてをまかせ、聖霊の働きによって形づくられるままに、まかせる人と、この両者の間には、どれほどの違いがあることでしょう。前者には、どれほど沢山の汚れと、欠点、暗いところ、錯覚、自然的、人間的なところがあることでしょう。これと異なり、後者は、清く、恵みにみち、イエズス・キリストに、どんなに似ていることでしょう。どんな被造物にも、聖人たちにも、天国のケルビムやセフィラムでさえも、神のみ姿が、マリアほどに現れることはありません。神のおんひとり子は、このマリアのうちに入り、不思議なことを行い、マリアを守って、ご自分の喜びとしておられます。神は、旅路にある人間のために、わたしたちが住んでいるこの世界を創られました。また、光栄を受ける人間のために、天国をお創りになりました。でも、ご自分のために、もう一つの世界を創って、それを、マリアと名づけました。この世界は、地上にある、ほとんどすべての人間に知られていない世界であって、天国の聖人や天使たちでさえも、それを理解できません。かぎりなく偉大な、言葉にいいつくせないほどの神が、尊いマリアと、あんなにも親密で、その中にかくれておられるのを驚きのうちに考えて、天使たちは、喜びにあふれ、「聖なる方!聖なる方!聖なる方!」と、やむことなくたたえています。マリアという恵みの秘密を聖霊が示してくださる人は、非常に祝福された人です。聖霊が、この秘密をお教えになるのは、人がそれを知るようにするためです。マリアは、閉じられた花園であって、聖霊は、その花園を開いてくださいます。また、マリアは、封じられた泉であって、聖霊は、人がその泉から恵みの水をくんで、これによって渇きをいやせるように、この泉を開いてくださいます。最も愛すべきマリアの中で、神はそのすべてであります。マリアのうちには、かぎりなく聖であり、いいつくせない神だけがあります。でも神は、無限にあわれみ深いお方です。神は、どこにでも、おいでになります。地獄にさえもおいでになります。でも、マリアにおいてだけ、わたしたちにとって最も近くにおられます。このためにこそ、神はマリアのうちに人間となられたのです。神はどこにおいても、”つわもの”のパン(詩編78・25)また、天使たちのパンです(知恵の書16・20)。そして、マリアのうちで子らのパンともなられます。あるいつわりの神学者はこう考えます。すなわち、マリアはたんなる被造物でしかないから、わたしたちにとって、神との一致のさまたげになる、と。しかし、誰もこのようなことを考えてはなりません。マリアは、かの女自身が生きるのではなく、神だけが、マリアのうちに生きておられるのです(ガラツィア2・20参照、聖パウロが、自分について言っているこの言葉を、モンフォール師は、マリアにあてはめます)。マリアは、完全に神にかわって、神にみちておられます。天が地よりも、すぐれているように、聖マリアの聖徳は、聖パウロよりも、また他の聖人たちよりもすぐれてり、完全に神に開かれています。マリアは、ただ神のためだけ生きており、マリアをさがす人々の霊魂を自分の中にとどめないで、その人たちを神にみちびきます。それで、人の霊魂が、マリアと一致すればするほど、神と一致するようになります。聖母マリアは、神の感嘆すべき山彦です。わたしたちが、かの女に向かって「マリア」と叫ぶとき、マリアは「神」と答えます。また、わたしたちが、聖女エリザベットと共に、マリアに、「幸いなるお方」とあいさつをするとき、マリアは、神をほめたたえます。あるいつわりの教師たちは、祈りの時にさえ、悪魔とそのまどわしによって、だまされたのですが、もし、マリアを探しもとめていたなら、まちがわなかったでしょう。なぜなら、かれらが、マリアを通じて、イエズスを、それから、イエズスを通じて神であるおん父をみつけたはずだからです。聖人たちが教えるとおり、マリアを通じてイエズスを、それから、イエズスを通じて父である神をみつけたなら、すべての善をみつけたことになります。すべての善というとき、そこには、すべてが含まれているのです。すなわち、神のすべての恵みと友情、神の敵から守られていること、いつわりではなく真理を、救いの道での困難に容易にうち勝つこと、生活のにがみの中で、喜びと甘美さです。といっても、マリアに対するまことの信心があるからといって、十字架と苦しみをまぬがれることにはなりません。この信心をする人は、他の人よりもかえって、十字架と苦しみが多いことがありえます。生きる人の母であるマリアは、その子らに命の木、すなわち、イエズスの十字架の断片をお与えになります。しかし、これらの十字架を与えると同時に、これを耐えしのび、また喜びをもってさえ、十字架をになう恵みもお与えになります。それで、マリアの子らに与える十字架は、苦いというより、かえって甘美なものさえなります。もし、神の友人たちがどうしても飲まねばならない杯のにがみを、しばらくの間感じなければならないにしても、この善い母が、悲しみの次に与える慰めとよろこびは、他の、もっと重くて、にがい十字架をになうための力と勇気になります。