第二部 五章 自己奉献の外的業

第五章 自己奉献の外的業

この信心は、内的業のほかに、外的業もあって、これをないがしろにしてはなりません。第一になすべきことは、特別な日を選んで、マリアのおん手を通じて愛のどれいとして、イエズス・キリストに自分を奉献することです。そのためには、この日に聖体拝領をし、祈りのうちにすごすようにしなければなりません。この奉献は、少なくとも、毎年一度、同じ日に新たにしなければなりません。第二の業は、毎年、自己奉献の記念日に、わたしたちの愛のどれいとしての、しるしとして、聖母マリアに、小さなおくりものをすることです。どれいたちは、自分の主人に対してこのようにする習慣があります。このおくりものは、つぐないの行いか、愛の業か、巡礼か、とくべつな祈りにしてもよいです。福者マリノが伝えているように、かれの兄弟聖ペトロ・ダミアニは、毎年、自己奉献の記念に、聖母の祭壇の前に行って、公に自分をむち打っていました。これほどのことをする必要はありません。わたしは、しないほうがよいと考えています。それにしても、わたしたちがマリアに捧げるものが、ささやかなものであるにしても、けんそんな心と感謝をもってしなければなりません。第三の業は、毎年、とくべつな信心をもって、お告げの祝日を行うことです。この祝日は、この信心のおもな祝日であって、わたしたちは、わたしたちへの愛のために、マリアの中で人となられたみことばの従順を考え、それを尊敬し、これにならうことがたいせつです。第四の業は、聖母マリアの小さなロザリオを毎日となえることにあります。この小さなロザリオとは、天にまします三回、めでたし十二回からなります。しかし、これをとなえないと罪になると考えてはなりません。また、聖母マリアのマニフィカトを、たびたびとなえます。これは、わたしたちに伝わった聖母マリアの唯一の歌です。これをとなえるのは、神の恵みを感謝し、新しい恵みを願い求めるためです。けいけんなゼルニソ師によれば、マリアご自身、聖体拝領の感謝として、これをとなえておられたので、わたしたちもとなえるのは望ましいことです。第五の業は、祝福された小さな”くさり”を首、あるいは腕に、あるいは足に、あるいは腰につけることです。げんみつに言えば、この業をぬかしても、この信心の本質的な部分を少しも、そこないません。それにしても、この業を軽蔑したり、まちがっているときめつけるのも霊的損害にならないことはありません。この外的なしるしを身につけるにあたっては、有利な理由があります。イエズス・キリストがわたしたちを実際に自由なものとするために、ご受難のときに結ばれたなわと、くさりを記念する刺激となります。「わたしは、愛のきずなで、かれをひいた」(ホゼア11・4)と書いてあるように、愛のきずなを示していて、わたしたちが、いつも愛によって行わねばならないことを思い出させるために役立ちます。わたしたちが愛のどれいとして、イエズスとマリアに従属していることを思い出させるために役立ちます。じじつ、どれいは、くさりで縛られています。イエズスとマリアの愛のどれいとして身を捧げた人は、これらの”くさり”を身につけるのを名誉と考えていたのです。かれらは、トルコ人のどれいのように、くさりを公に、ひきずって歩くのをゆるされていないのを残念に思っていました。おお貴重なくさりよ!それは、地上のすべての王たちの黄金のくさりと真珠よりも、ずっと光栄にみちたものです。なぜならこれによって、わたしたちは、イエズス・キリストと最も聖なるおん母にむすばれ、それは、この従属関係のしるしと紋章だからです。これらの小さなくさりは銀でないなら、鉄のものにして、らくに運べるようにしなければなりません。これらのくさりは、一生涯にわたって、決してはずさないで、裁きの日まで、身につけることができるようにしなければなりません。最後の審判でラッパがひびきわたる時、地から出てくる骨が、まだ残っている愛のどれいの”くさり”で結ばれているとしたら、これを忠実に身につけた人は、どれほど大きな喜びと光栄と勝利をうけることでしょう。このことを考えるだけで、これを身につけるのは、つごうが悪くても、決してそれを、はずさない大きな刺激となります。