聖マリアの秘密<救いの歴史におけるマリアの役わり>

聖マリアの秘密 聖モンフォール著 デルコル神父/江藤きみえ共同訳 愛心館

序章 一つの秘密を教えてあげたい

1 イエズスのおん血によって、あがなわれた魂よ、聖霊が、わたしに示してくださった一つの秘密を教えてあげたいと思っています。

わたしは、どんな本にも、占いものにも新しいものにも、それをみつけませんでした。聖霊の恵みによって、この秘帝を、あなたに教えてあげます。でも、それには、次の条件があります。

①あなたは、これを次の人にだけ教えてあげなさい、それは、祈りと犠姓心と忍耐強さと、そして、献身的に人の救いのために働き、この世のものから離脱している人々です。

なぜなら、この人たちは、これを正しく利用することができるからです。

②まず、あなた自身が、聖人となるために、これを利用するようにしてください。

この秘密を、どのように利用するか、ということによって、大きな効果があるからです。腕をこまねいて、どんな努力もしなくてよいとは考えないで下さい。

もし、そう考えるなら、わたしのこの秘密は”呵責”のもととなり、神の前に、きびしい裁きを招くことになるからです。

③あなたに、この秘密を知る値打ちがないにしても、教えていただいた恵みのために、一生涯、毎日神に感謝しなければなりません。

生活のふだんの行為において、この秘密を実行すれば、するほど、その美と重大さとが分かるようになるでしょう。

それにしても、妨げとなる沢山の罪と欠点のために、最初は、この秘密を不完全な方法だけで悟るでしょう。

2 今しばらくの間、わたしが示そうとしている秘密をすぐ知りたいという望みをおさえてください。

これは、自然の水準に属するものではないからです。それで、まず第一に、信心ぶかく、ひざまずいて、アヴェマリス・ステッラと、ヴェニクレアトルを唱えてのち、この神的奥義を理解し、味わう恵みを神に願い求めてください。

わたしには、書くための時間があまりないし、あなたも、読む時間がないので、すべてを短かく述べることにします。

第一部 聖母マリアを通じて聖徳を目指す義務について

第一章 聖徳の召し出しは、みなのため

3 あなたの魂は、神にかたどって造られ、イエズス・キリストの尊いおん血によって、あがなわれたものです。神は、あなたが地上においては神の聖徳にならい、天国においては神の栄光にあずかるように望んでおられます。

聖徳は、あなたのための召し出しです。聖徳を得るために、あなたのすべての考え、言葉、行い、苦しみにおいて、つまり、一生涯のどんな平凡な時にも聖徳をめざしてゆかなければなりません。

もし、あなたが、そうしないなら、神のみ旨を果たさないし、神があなたを創り、今まで生かしてくださった大事な目的をないがしろにすることになります。

聖徳はなんとすばらしいことでしょう。これによって、くら闇は光に、泥は潔白に、罪は恵みに変化されます。聖徳によって人間は、創り主に似たものとなり、聖徳は神の命にあずからせます。

ほんとうに感嘆すべきことではありますが、しかし、そのものとしては、人間の力だけでは絶対に得られないものです。神の恵みなくしては、誰も聖徳を得ることができません。それは、神の異常なほどの豊かな恵みによるものです。それは、天地万物を創るより偉大な傑作です。

4 あなたは、どのようにして、この聖徳を得ることができるでしょうか?あなたは、この聖徳を得るために、どんな手段に訴えられたらよいと思っていますか?

救いと聖徳を得るために必要な手段は、福音書の中に書かれ、霊的生活の指導者たちから説明され、聖人たちが実行にうつしたものです。

その手段とは、心のけんそん、たえざる祈り、すべてにおいて、特権をささげ、神のみ摂理にわが身をゆだね、神のみ旨に一致することです。

5 これらの手段を実行するためには、疑いもなく、神の恵みが絶対に必要です。この恵みは、その程度の差こそあれ、すべての人に与えられています。

程度の差があると、わたしはいいましたが、その理由は、次の通りです。

すなわち、神は、かぎりなく善い方であります。そして、すべての人に十分な程度の恵みをお与えになるにしても、みんなに区別なしに、同じ程度の恵みをお与えになりません。

大きな恵みをうけた人は、すぐれた行為をすることができますが、それにひきかえ、少ない恵みを受けた人は、限られた程度の行いしかすることができません。

わたしの行いに、ねうちを与えるのは、神から与えられた恵みであります。これに人間が協力しなければならないのです。これこそ誰も反対できない原則なのです。

第二章 救いの歴史におけるマリアの役わり

6 従って、聖人となるための必要な恵みを頂くために、やさしい方法を見つけることはたいせつです。そのやさしい方法こそ、わたしは教えてあげたいのです。まず、神の恵みをみつけるためには、マリアをみつけなければなりません。

じじつ、

7 ①マリアだけが、ご自分のためと、人間の全ての人のために、神のみ恵みを得ました。それは、太祖たちも、預言者たちも、旧約時代のどんな聖人もみつけ得なかった恵みです。

8 ②マリアはすべての恵みの与え主である、あがない主に、肉体と命を与えられたのです。そのためにこそ、わたしたちは、聖マリアのことを恵みのおん母と呼びます。

9 ③父である神は、すべての完全なおくりものと、恵みの根本的な泉であります。神はマリアに、おん子を与えることをもってすべての恵みもお与えになりました。

聖ベルナルドが、いっているように、マリアは、イエズスにおいて、そして、イエズスと共に、神のみ旨さえもまかせられたのです。

10 ④神は、マリアをその恵みの宝倉の責任者、すなわち、すべての恵みを管理し、分配するものとして選んでくださいました。そのために、すべての、これらの、たまものは、マリアのみ手を通して与えられます。

聖ベルナルディーノによると、マリアは、天のおん父の恵みと、イエズス・キリストの功徳と聖霊のたまものを、ご自分が望む人に、お望みのままに、お望みの時に、お望みになるはかりに従って分配することができます。

11 ⑤自然の段階では、子どもに父と母が必要でありますが、同様に、超自然界の段階においても、教会のまことの子どもにそれが必要です。すなわち、神を父に、マリアを母に持たねばならないのです。

神を父として持っていると誇りながらも、マリアに対する本当の孝心に欠けているなら、その人は悪魔を父としている、うそつきになります。

12 ⑥マリアは、選ばれた人たちのかしらである、イエズス・キリストの母となられたように、この頭の肢体であるキリストの母でもなければなりません。事実、どんな母も、体のない頭は生まないし、頭のない体も生まれないのです。

従って、イエズス・キリストの「恵みと真理にみちた」肢体となりたい人は、イエズスの恵みを通して、マリアから形づくられねばなりません。

この恵みをマリアが完全な程度にもっておられる理由は、すなわち、イエズス・キリストの肢体であり、マリアの本当の子どもである人々にそれを分け与えるためです。

13 ⑦聖霊は、マリアをご自分の花嫁として選び、マリアのうちに、マリアを通して、マリアから、その傑作である人となられたみ言葉イエズスを、この世にもたらしました。

聖霊がマリアから決して離別しなかったので、今でも、毎日マリアのうちに、マリアを通じて、キリスト者を生みます。それは、不思議な、しかも本当の方法によってであります。

14 ⑧神は、マリアに、その子らである人々の霊魂を養い、そして、神のいのちに成長させる特別な能力をお与えになりました。

聖アウグスティヌスによれば、わたしたちは地上にいるあいだ、マリアのご胎内に、霊的にとじこめられています。マリアが永遠のいのちのためにお生みになる時に、はじめて光を見るようになります。

母の胎内にいる子が母を通じて生きているように、神の子どもたちも、霊的かてと、その力のすべて、マリアから受けています。

15 ⑨マリアだけ、おん父は「わたしの娘よ、ヤコブに住まいを定めよ」とおおせになりました。すなわち、ヤコブによって示されている、わたしの選ばれた人々の中に、住まいを定めよと。

また、おん子もマリアにおおせられます、「私の母よ、イスラエルの所有地に、すなわち、わたしの選んだ人々を自分の遺産として受けなさいと。

聖霊もまた、マリアに向かって、おおせになっています。「わたしの忠実な花嫁よ、光栄にみちた民、すなわち、わたしの選んだ者の所有地に根をおろしなさい」(シラの書24・8と12参照)と。

したがって、神のみ心にかなった選ばれた人々は、マリアを自分の住まい、すなわち、自分の魂の中に歓迎し、マリアがその中で深いけんそん、熱烈な愛徳、およびすべての善徳の根をおろすように、まかせなければなりません。

16 ⑩聖アウグスティヌスはマリアのことを、「神のかたどり」、すなわち、神の生きた、”鋳型“と呼んでいますが、実際にそうです。

なぜなら、マリアのうちにだけ、神が人間に形づくられ、神としての特長を、そのまま保ちながら、本当に人間となられたからです。

同様に、マリアにおいてのみ、人間は、実際に神性にあずかることができます。もちろん、人性がイエズス・キリストの恵みによって可能な程度にです。

彫刻家は、立像または胸像をつくるために、二つの方法を使うことができます。一つは、形のない固い材料に、のみ、または、他の適当な道具を用いてする方法で、もう一つは、鋳型をもってする方法です。

第一の方法は、長くかかり、また、むずかしく、容易にまちがいます。なぜなら、かなづちや、のみで、まちがった叩きかたをすれば、全部を駄目にする危険があるからです。

第二の方法を使えば、かえって、早くでき、簡単で、むずかしくもありません。この方法を用いたら、苦労もなく、また、費用も安くてできます。

それは、もちろん、鋳型が完全であり、作ろうと思っている像を忠実にあらわし、使う材料が適正であって、やわらかいという条件のもとにです。

17 まことの人間であり、まことの神であるお方、すなわち、イエズス・キリストを完全に、ご託身によって形づくるために、聖霊によって準備された偉大な鋳型は、神の恵みによって、マリアであります。

マリアであるこの鋳型には、神の特長が一つも不足することがありません。

従ってこの鋳型に入り、形づくられるままに、まかせる人は、イエズスの霊的な姿をとるようになります。

そうなるために、これは、やさしい方法で、人間の弱さに適しています。たいした苦労も、悩みもなく、また、だまされる心配のない安全な方法です。

なぜなら、悪魔は、これに干渉することも、マリアがおられるところに、入ることもできないからです。また、マリアは、無原罪のお方で、どんな小さな罪の汚れもないお方だからです。

18 自分の技術に信頼する彫刻家のように、一般的なふつうの方法で養成される人と、単純で、従いやすく、けんそんで、自分に信頼しないで、マリアにすべてをまかせ、聖霊の働きによって形づくられるままに、まかせる人と、この両者の間には、どれほどの違いがあることでしょう。

前者には、どれほど沢山の汚れと、欠点、暗いところ、錯覚、自然的、人間的なところがあることでしょう。これと異なり、後者は、清く、恵みにみち、イエズス・キリストに、どんなに似ていることでしょう。

19 どんな被造物にも、聖人たちにも、天国のケルビムやセフィラムでさえも、神のみ姿が、マリアほどに現れることはありません。

神のおんひとり子は、このマリアのうちに入り、不思議なことを行い、マリアを守って、ご自分の喜びとしておられます。

神は、旅路にある人間のために、わたしたちが住んでいるこの世界を創られました。また、光栄を受ける人間のために、天国をお創りになりました。

でも、ご自分のために、もう一つの世界を創って、それを、マリアと名づけました。

この世界は、地上にある、ほとんどすべての人間に知られていない世界であって、天国の聖人や天使たちでさえも、それを理解できません。

かぎりなく偉大な、言葉にいいつくせないほどの神が、尊いマリアと、あんなにも親密で、その中にかくれておられるのを驚きのうちに考えて、天使たちは、喜びにあふれ、「聖なる方!聖なる方!聖なる方!」と、やむことなくたたえています。

20 マリアという恵みの秘密を聖霊が示してくださる人は、非常に祝福された人です。聖霊が、この秘密をお教えになるのは、人がそれを知るようにするためです。

マリアは、閉じられた花園であって、聖霊は、その花園を開いてくださいます。また、マリアは、封じられた泉であって、聖霊は、人がその泉から恵みの水をくんで、これによって渇きをいやせるように、この泉を開いてくださいます。

最も愛すべきマリアの中で、神はそのすべてであります。マリアのうちには、かぎりなく聖であり、いいつくせない神だけがあります。

でも神は、無限にあわれみ深いお方です。神は、どこにでも、おいでになります。地獄にさえもおいでになります。でも、マリアにおいてだけ、わたしたちにとって最も近くにおられます。

このためにこそ、神はマリアのうちに人間となられたのです。

神はどこにおいても、”つわもの”のパン(詩編78・25)また、天使たちのパンです(知恵の書16・20)。そして、マリアのうちで子らのパンともなられます。

21 あるいつわりの神学者はこう考えます。すなわち、マリアはたんなる被造物でしかないから、わたしたちにとって、神との一致のさまたげになる、と。

しかし、誰もこのようなことを考えてはなりません。マリアは、かの女自身が生きるのではなく、神だけが、マリアのうちに生きておられるのです(ガラツィア2・20参照、聖パウロが、自分について言っているこの言葉を、モンフォール師は、マリアにあてはめます)。マリアは、完全に神にかわって、神にみちておられます。

天が地よりも、すぐれているように、聖マリアの聖徳は、聖パウロよりも、また他の聖人たちよりもすぐれてり、完全に神に開かれています。

マリアは、ただ神のためだけ生きており、マリアをさがす人々の霊魂を自分の中にとどめないで、その人たちを神にみちびきます。れで、人の霊魂が、マリアと一致すればするほど、神と一致するようになります。

聖母マリアは、神の感嘆すべき山彦です。わたしたちが、かの女に向かって「マリア」と叫ぶとき、マリアは「神」と答えます。

また、わたしたちが、聖女エリザベットと共に、マリアに、「幸いなるお方」とあいさつをするとき、マリアは、神をほめたたえます。

あるいつわりの教師たちは、祈りの時にさえ、悪魔とそのまどわしによって、だまされたのですが、もし、マリアを探しもとめていたなら、まちがわなかったでしょう。

なぜなら、かれらが、マリアを通じて、イエズスを、それから、イエズスを通じて神であるおん父をみつけたはずだからです。

聖人たちが教えるとおり、マリアを通じてイエズスを、それから、イエズスを通じて父である神をみつけたなら、すべての善をみつけたことになります。

すべての善というとき、そこには、すべてが含まれているのです。すなわち、神のすべての恵みと友情、神の敵から守られていること、いつわりではなく真理を、救いの道での困難に容易にうち勝つこと、生活のにがみの中で、喜びと甘美さです。

22 といっても、マリアに対するまことの信心があるからといって、十字架と苦しみをまぬがれることにはなりません。この信心をする人は、他の人よりもかえって、十字架と苦しみが多いことがありえます。

生きる人の母であるマリアは、その子らに命の木、すなわち、イエズスの十字架の断片をお与えになります。

しかし、これらの十字架を与えると同時に、これを耐えしのび、また喜びをもってさえ、十字架をになう恵みもお与えになります。

それで、マリアの子らに与える十字架は、苦いというより、かえって甘美なものさえなります。

もし、神の友人たちがどうしても飲まねばならない杯のにがみを、しばらくの間感じなければならないにしても、この善い母が、悲しみの次に与える慰めとよろこびは、他の、もっと重くて、にがい十字架をになうための力と勇気になります。

第三章 マリアを通じて

23 結論をいえば、問題は、実際に、聖なるマリアと、そして、すべてのゆたかな恵みをみつけることにあります。

神は、すべてのものの絶対的な主でありますから、お望みの時に、ふつうには、マリアを通じてだけお与えになる恵みを、直接、ご自身で与えることもおできになります。実際にある場合には、そうしておられるのは否むことができません。

しかし、聖トマスが教えているように、神は恵みの世界において、マリアを通じてだけ、人間に恵みをお与えになるのが普通の道です。

それで、人が、神のところまで高められ、神と一致するために、神ご自身、人間となって、その恵みを与えようとして、わたしたちのところにくだるために同じ方法をお使いになるのは当然のことです。

この方法こそ、聖マリアへのまことの信心なのです。

第二部 聖マリアへのまことの完全な信心

24 聖母に対するまことの信心を示す方法は沢山あります。もちろん、まちがった方法もありますが、それについては話さないことにします。

25 第一の方法は罪をさけて信者のつとめを忠実に守りながら、マリアを神のおん母として尊敬し、ときどき祈りを捧げることにあります。

もちろん、天罰を恐れるという理由のためでなく、神に対する愛のためにするのです。この方法では、特別な信心業が要求されません。

26 第二の方法は、マリアに対して、尊敬と愛と信頼の心をつちかい、ロザリオの信心会と、カルメルのスカプリオの信心会というような聖母信心会に入ることにあります。

この方法による人は、毎日ロザリオ一かん(五玄義)または三かん(十五玄義)をとなえ、聖母のご絵、ご像と聖母の祭壇を尊敬し、花で飾って、聖母にささげられた信心会に入会します。

このような信心会は、人を罪から遠ざけるなら、賞賛すべきものです。それにしても、この方法で霊魂をイエズス・キリストに一致させるために、被造物に対する執着と利己主義から完全に切りはなすような効果はありません。

27 第三の方法は、わずかな人だけが知っていて、実行していていますが、これからその方法を知らせてあげます。

第一章 完全な奉献

28 聖母マリアに対するまことの信心は、どれいのように完全に自分をマリアに与え、マリアを通じてイエズスに与えることにあります。

まことの信心は、マリアと共に、マリアのうちに、マリアを通じて、マリアのために、すべてをすることを教えます。このことを、次に説明しましょう。

29 特別な日を選んで、自発的に、そして、愛のために、何も恐れず、何も保留せず、完全に自分を捧げ、奉献し、また、自分を犠牲にしなければなりません。

完全に与えるといえば、体も、霊魂も、家も、家庭も、また、利益のような外部的財産も、孤独、恵み、善徳、慰めのような霊魂の内的富も全てを含めています。

この信心によって、人の霊魂は、どの修道会にも要求されていない犠牲をもって、マリアを通じ、自分をイエズスに捧げます。

この奉献によって、わたしたち自身と、祈りと、ほどこし、苦業や、つぐないの価値の所有権をイエズスに捧げます。

すべてを聖母にまかせるのですから、祈りや、つぐないについて、自分では何もきめず、これをマリアにまかせます。

マリアは、ご存知の完全な方法で、それを神のより大きなみ栄えのために、適当にお使いになります。

30 善い行いは、つぐないにもなるし、また恵みを願うことにもなります。この功徳を全部マリアにまかせます。

しかし、この奉献は誓願ではありませんから、それをしなくても罪にはなりません。

しかし、マリアにすべてを捧げたのですから、わたしたちは、もうそれについてきめる権利を放棄します。

そうすれば、マリアは、その善い行いの功徳を煉獄の霊魂を解放するためとか、罪人を改心に導くために使うことがおできになります。

31 わたしたちの功徳も、こうしてマリアのみ手にゆだねられます。それは、マリアが、これを保存し、ふやし、より値打ちのあるものにしてくださるためです。

げんみつに言えば、わたしたちの恵みの功徳も、光栄の功徳も直接人にゆずれるようなものでないからです。

すなわち、わたしたちが祈りと、善い行いをマリアにまかせるときには、マリアは、これをお望みの者のために使うことがおできになるのです。

こうして、すべてをマリアにおまかせして後、もし、わたしたちが、煉獄のある霊魂を助けたり、ある罪人を救ったり、あるいは、祈りや、苦業や、ほどこしや、犠牲をもって、ある友人、または、ある敵の利益のために役立てたいと望むときは、まずマリアの許可を願い、マリアがきめてくださることに、まかせねばなりません。

わたしたちは、マリアが、それらを、どのようにお使いになるかを知る必要はありません。

でも、安心しましょう、わたしたちの善い行いを、マリアが神のより大きなみ栄えのためにお使いになるのは確実ですから。

神ご自身さえも、わたしたちに、ご自分のおくりものと恵みを与えるために、マリアのおん手を通じてなさるのですから。

32 まことおの信心は、わたしたちを、どれいであるかのように、マリアに奉献することにあります。

どれい制度には、三つの種類があります。

第一のものは、自然によるもので、善い人も悪い人も、すべての人は、生まれながら神のどれいです。

第二のものは、強制的などれいです。これは、悪魔と亡びた人々のためのどれい制度です。

第三のものは、自発的に、愛のためにどれいになることです。これに属する人々は、マリアを通じて、自分を神に奉献しなければならないのです。これは、被造物が創り主に自分を奉献する最も完全な方法です。

33 どれいと、”しもべ”との間には、大きな区別があります。

しもべは、奉仕のために給料をうけますが、どれいは、それを受けません。

それにひきかえ、しもべは、望むときに自由に主人から離れることができ、それに、奉仕は、ある期間のためだけです。これと異なり、どれいは、主人の所有物であるため、主人から離れることはできません。

しもべは、また、生死の自分の権利を決して主人にゆずりません。かえって、どれいは、完全に主人に従属し、主人は、どれいを殺すことさえも認められていました。

キリスト信者の間では、このようなどれい制度は認められていません。しかし、異教徒と偶像崇拝者では、それを認めています。

34 洗礼をうけて、悪魔のどれい制度から解放されてのち、自分を愛のどれいとして、マリアを通じて、自分を完全にイエズスに奉献する人は、なんと幸せな者でしょう。

第二章 奉献のすぐれた点

35 この信心が、どれほどすぐれているかを完全にあなたに教えるため、わたしは、天の知恵にみたされることを望みます。とにかく、そのわずかの点だけふれることにします。

①このようにして、マリアを通じて、自分をイエズスに奉献することは、父である神にならうことになります。なぜなら、おん父は、マリアを通じておん子をわたしたちにお与えになったからです。

それにイエズスは、ご自分がなさったように、わたしたちもするようにとお手本をお示しになりました。

それで、イエズスは、わたしたちも、イエズスがお通りになったのと同じ道を、すなわち、マリアを通じて、ご自分に来るようにと招いておられるのです。

また、それは、聖霊にならうことになります。聖霊は、マリアを通じてだけ、ご自分のめぐみと賜とをお与えくださいます。

聖ベルナルドは、こう言っています。「恵みがわたしたちに届いたのと同じ運河を通って、その泉である神に戻るのは、当然なことではありませんか」。

36 ②マリアを通じて、イエズスのところに行くのは、イエズスに、大きな光栄を帰すことになります。すなわち、それは、犯した罪のために、わたしたちが、無限に聖なるお方であるイエズスに直接近づく値打ちがないものであることを示すことになります。

それで、聖なるおん母が、わたしたちの仲介者であるイエズスのみ前に弁護者と仲介者となってくださる必要があるのです。

このようにすることで、わたしたちは、イエズスをわたしたちの兄弟とも仲介者とも仰ぎますが、それと同時に、イエズスが、わたしたちの神であり、裁き主であることを、けんそんに認めることになります。

こうして、わたしたちは、けんそんの徳を守りますが、けんそんこそ、神のみこころを奪うものです。

37 ③マリアを通して自分をイエズスに奉献することは、わたしたちの善い行いをマリアのおん手に、ゆだねることになります。

わたしたちの行いは善いもののようにみえますが、そのじつ、多くの場合、あまりにも汚れていて、神はそれを受け入れ、ご自分の喜びとする値打ちがありません。なぜなら、神はどんな小さな欠点も見通しておられるからです。

それで、わたしたちは、善い母であるマリアに向かって、わたしたちの、つまらない、おくりものを受け入れて、これを清め、聖なるもの、値打ちがあるもの、美しいものとして、神に受け入れやすくしてくださるように願うのです。

ひとりの百姓が王さまに負債を支払うために、傷のあるリンゴを捧げるとしたら、それは、なんの値打ちもありません。

わたしたちのあわれな霊魂の実も同じことです。天のおん父の友情と喜びを得るのに、あの傷のあるリンゴよりも、ずっと値打ちが少ないのです。

でも、その百姓に知恵があるなら、女王のよい心に訴えるでしょう。そうすると、女王は、かの百姓に対して愛情を感じ、王に対する尊敬のために捧げられた果物から、悪いところを切りとって、善い所を花で飾った黄金のおぼんの上において、王に捧げるなら、王は、かの百姓に対して好意を示す女王の手から、そのおくりものを受け入れるに、ちがいありません。

聖ベルナルドは次のように教えています。「なにか小さいものを神にささげたいとき、断られたくないと望むなら、マリアのおん手を通じて捧げなさい」と。

38 ああ主よ、わたしたちの善い行いは、たいしたものではありません。それで、まことの信心が教えるように、これらの善い行いを、マリアにおまかせすることは、正しいと思います。

わたしたちが、マリアの名誉のために、もっているものを全部おささげするなら、無限に寛大であるマリアは、どれほど報いてくださるでしょう。

わたしたちが、マリアに卵一個を捧げるなら、もっと寛大なマリアは、牛一匹をわたしたちにくださるでしょう。

つまり、マリアは、ご自分を完全に、功徳も善徳も全部与えてくださって、ご自分の愛徳の黄金のお盆の上に、わたしたちの、おくりものをのせてくださるでしょう。

また昔、レベッカがヤコブにしたように、ご自分の長男で、おんひとり子イエズス・キリストの貴重な美しい服をきせてくださるでしょう。この服は、イエズスの功徳にあたるもので、マリアが保存してくださっています。

それで、わたしたちがマリアのどれいと、しもべとして、マリアのみ栄えのために、すべてのものを捧げたのなら、その二倍のものをマリアから頂くことになります。

つまり、イエズスとマリアの服と飾りと香料と功徳を豊かに受けることになります。

イエズスとマリアのどれいになった人は、自分のものをすべて捧げ、その奉献を忠実に守るとき、マリアは、その人の魂を、どれほど富ませてくださることでしょう。

39 ③聖母に対する奉献をこんなふうにするとしたら、他人に対する愛徳を最高度まで守ることになります。

つまり、わたしたちがもっている最も貴重なものを全部マリアにまかせるのですから、マリアは、それを生きている人と亡くなった人の利益のために自由に使うことがおできになります。

④まことの信心が教えるように、わたしたちの恵みと功徳と善徳をマリアにまかせるとき、これらを安全に保つことになります。

つまり、わたしたちは、マリアに、こんなふうに言うことになります。

「わたしの愛する天の母よ、わたしが、おん子イエズスの恵みによってすることのできた善いことを、あなたのおん手におまかせします。どうぞ、おうけとりください。

わたしは弱くて、忍耐強くないし、わたしの霊的敵は多く、悪意にみち、昼となく、夜となく、わたしを攻撃しますから、わたしは、自分の力では自分を守ることができません。

わたしは毎日、レバノンの糸杉のような強い人が倒れ、また、太陽にまで、まいあがっていた鷲が夜の鳥のようになってしまうのを毎日見ています。

また、千人の義人が、私の左に、一万人もの人が、わたしの右に倒れていくのもみています。

もっとも力づよい姫ぎみよ、わたしが倒れないように支えてください。わたしの財産が盗まれないように守ってください。

わたしは、あなたの力を知っています。このためにこそ、あなたに完全にわが身をおまかせします。

あなたは、あなたにまかせた人をひとりも失われるのをお許しになりません。

あなたは強いお方ですから、だれも、あなたを攻撃して、あずかったものを奪い取ることができません」。

聖ベルナルドの言葉をききましょう。

「マリアに従うなら、迷うことはありません。マリアを探すなら、失望することはありません。

マリアを考えるなら、まちがいません。マリアが支えてくださるなら、倒れることはありません。

マリアに導かれるなら、疲れる心配はありません。マリアが守ってくださるなら、目的地に着くでしょう。

マリアは、おん子の、いきどおりをやわらげ、悪魔に損害を加えさせません。

マリアは、その子らの善徳を守り、功徳を保持し、神の恵みのうちに生きることを助けます」。

以上は聖ベルナルドの言葉です。この言葉によって、わたしが前に言ったことが確認できます。

この信心を行うためには、この信心こそ神の恵みを守り、ふやすための確かな方法であると考えただけで、この信心を熱烈に行う必要を感じなければならないのです。

41 ⑥この信心のおかげで、霊魂は神の子らの自由を得て、実際に自由になります。

わたしたちが、自発的に愛のためにマリアのどれいになるなら、この愛すべき姫ぎみは、報いとして、わたしたちの心を広げ、神のおきての道を巨人の足どりをもって進ませてくださるでしょう。この信心は、嫌気、悲しみ、小心を遠ざけます。

じじつイエズスご自身、イエズスのアグネス・シスター(神のしもべアグネス・ド・ランジェアク)に、この信心こそ、かの女が感じていた沢山の苦しみと、不安から、ぬけ出る安全な道であると、教えてくださいました。

イエズスは「わたしの母のどれいになりなさい」と、おおせになったのです。じじつこのシスターは、いわれたとおりにして、すべての悩みが消えてしまいました。

42 この信心の重大さを示すためには、教皇たちの大勅書と免償、これを許可した司教たちの教令、およびこの信心のために設立された信心会、沢山の聖人たちと敬虔な人たちの手本について話すのがよいと思いますが、しかし、長くならないために、これをぬかします。

 第三章 奉献生活の内的実行

43 マリアに対するまことの信心は、自分の行いをすべて、マリアと共に、マリアのうちに、マリアを通じて、マリアのためにすることにあると、すでにわたしは述べました。

44 自分をマリアのどれいとして、一度奉献しただけではたりません。また、毎月あるいは毎週この奉献をくりかえすだけでもたりません。

それだけだったら、うわべだけの信心で、霊魂を完全に聖徳へみちびく力がないでしょう。

あるいは、一つの信心会に入会して、この信心のために定められた祈りを毎日となえるだけでもたりません。

大切なことは、この信心の内的精神に入ることです。しかし、これは容易にできることではありません。

問題は、霊魂が、内的に、聖母のどれいとなり、マリアを通じて、イエズスのどれいになることにあります。

この聖なるどれい制度の感嘆すべき熱烈さをもって、外部的におこなった沢山の人にわたしは出会いました。しかし、その信心のまことの精神を理解して、これを守りつづけた人は少なかったのです。

45 ①この信心の根本的な実行は、すべての行いを、マリアと共にすることにあります。

すなわち、しようと思うすべてのことの完全な手本として、マリアにならうことです。

46 このために、何かをするより先に、自分と自分の考えを放棄し、超自然的などんな善いことも、あるいは、永遠の命のために、功徳のあるどんな行いも自分ではなし得ないと認めて、神のみ前にへりくだる必要があります。

わたしたちは、聖母のご意向を理解できなくても、聖母マリアに、よりすがって、聖母のご意向に一致しなければなりません。こうして、マリアを通じて、イエズスのご意向に一致する必要があります。

それは、くわしく言えば、マリアが、わたしたちのうちで行い、そして、わたしたちのことを、おん子イエズスのみ栄えのためになるとお思いになれるように、すべてをマリアのおん手にゆだねる必要があります。

また、イエズス・キリストを通じて、おん父のみ栄えのためにマリアがおきめになれるように、マリアにすべてをまかせる必要があります。

つまり、わたしたちの内的生活の行いも、霊魂の働きもみんな、マリアにきめていただくのです。

47 ②すべてのことを、マリアのうちにしなければなりません。つまり、自分の心の中に、聖母の小さな、うつし、あるいは絵を作るようにすると共に、内的生活を生きる習慣をつくらなければなりません。

つまり、マリアを霊魂にとって、祈りを神に捧げるためのお聖堂としなければならないのです。こうして、祈りを捧げたら、確実に聞き届けられると信じなければなりません。

マリアは、また、ダビデの塔のようになり、その中で、わたしたちは、すべての敵から守られるのです。

マリアは、あたかも、燃える灯のようになって、霊魂のいちばんかくれたところも照らして、神の愛に燃えたたせるのです。

マリアはまた、ご聖体の顕示台のようなもので、その中で、わたしたちは、神の姿を仰ぎみることができます。マリアが霊魂にとって、希望と安全な、よりどころとならねばならないのです。

祈るときは、マリアと共に祈り、聖体拝領によってイエズスご自身をいただくときは、イエズスが喜ばれるように、イエズスをマリアにまかせるのです。

どんなことをする時も、マリアのうちで行いすべてにおいて、自分から離脱しなければなりません。

48 ③マリアには、おん子の前で取りつぐ力があり、また信頼されているので、どんなことを願うにしても、マリアを通じて願うようにすることは、たいせつです。

結局、わたしたちは、おん子に祈るとき、自分ひとりで祈るのではありません。

49 ④すべての行いをマリアのためにしなければなりません。

マリアの愛のどれいになった人は、このやさしい善良な姫ぎみのために働きます、そして、直接の目的として、マリアのみ栄えのために、最後の目的として神の栄えのためにだけ、行わねばなりません。

もちろん、利己心を放棄しなければなりません。なぜならば、利己心は、わたしたちが気づかないうちに、どこでも入りこんでしまうからです。

それで、なん回もなん回も、心の深いところで、こういわなければなりません。「わたしの愛する姫ぎみよ、わたしは、あなたのために、これこれの行いをし、そこ、あそこに行き、これこれの悩みと侮辱をがまんします」と。

50 イエズス・キリスト、あるいは神の所に直接に行くほうが、もっと完全であると考えないように、注意してください。マリアの仲介がなかったら、あなたの行いも意向も、たいした値打ちはありません。

しかし、かえって、マリアを通じてするとき、あなたの行いは、もうあなたの行いではなく、あなたのうちに働いてくださるマリアのものとなり、そのために神のみまえにもっと貴重なもの、うけ入れられるものとなります。

51 あなたが、聖母のためにする、あるいは、話すことのために満足感を無理にでもよけいに感じたいと望まないでください。

マリアは地上に生きておられた時にもっておられた、その清い信仰が、あなたのすべての言葉と行いに満たされるようにしなさい。

マリアは、きっと適当な時に、この清い信仰をお与えてくださるにちがいありません。

愛の小さなどれいである、あなたは、神を明らかに仰ぎみること、愛にもえること、精神の喜びと富と楽しみをあなたの姫ぎみマリアに残しなさい。

あなたは、かえって、悩みと放心と、嫌気と、無味乾燥と、苦しみにみちた純粋な信仰だけを、自分のために探しなさい。

そして、「わたしは、今のところ、これ以上のことができないから、わたしの姫ぎみマリアが天においてなさることに対して、わたしは賛成します」といいなさい。

52 聖母のやさしい現存を心のなかで、すぐ味わうことができないことを悩んだり苦しんだりしないようにしてください。

この恵みは、すべての人に与えられるものではありません。神が、大いなる、おんあわれみによってこの恵みをお与えになっても、もし度々集中しないなら、これを容易に失うことがあります。

もし失ったら、マリアによりすがり、マリアのことを忘れたことについて、許しをねがいなさい。

 第四章 奉献の感嘆すべき効果

53 わたしが教えることよりも経験はもっとくわしいことを教えてくれるでしょう。

この信心を実行するなら、いいつくし得ない喜びを感じて、あなたは驚くでしょう。そして沢山の恵みも受けるでしょう。

54 まことの信心を忠実に守れば、聖母の魂は、わたしたちと一致し、救い主である神によって喜ばせてくださいます。

聖アンブロジオは、次のように書いています。「マリアの魂が主をほめたたえるために、マリアの精神が神によって喜ぶために、わたしたち、ひとりひとりのうちにありますように」と。

グエリコ大修道院長は、こういっています、「主ご自身が、その玉座をおいてくださったマリアのふところに生きるよりも、楽園とよばれているアブラハムのふところに生きるほうが、もっと幸せだと考えてはなりません」と。

55 この信心を忠実に守るなら、沢山の恵みを得るようになります。中でも、いちばん目立つのは、マリアが、わたしたちの霊魂の中に生きるようになるから、その霊魂は、自分が生きるのではなく、マリアがその霊魂のうちに生きるようになり、いわば、霊魂の霊魂となることです。

マリアが、ほんとうに、言葉にいいつくし得ない恵みによって、ある人の女王となられるとき、どれほど大きな不思議をおこなってくださることでしょう。

マリアは、大きな不思議を行いになりながら、とくべつに、心の中で働いておられます。多くの場合に、本人が気づかないうちに働いておられるのです。

霊魂が、もし、その不思議な恵みに気づくなら、虚栄心が生じて、それを失う危険があるからです。

56 マリアは、みのり豊かなおとめで、人の霊魂のうちに生きておられるときは、心と体の清さ、正しい意向と、豊かな善い行いをみのらせます。

マリアは、すべての被造物の中で、最もみのり豊かなお方で、神ご自身を生むほどになりました

このようなマリアを愛して、忠実をつくす霊魂のうちに、マリアは何もなさらないと考えてはなりません。

マリアは、その人の霊魂がいつもイエズス・キリストのために生きるようにすると同時に、イエズスが霊魂の中に生きるようになさいます。

「小さい子らよ、あなたたちのうちに、キリストが形づくられるまで、わたしは、再びあなたたちを生みます」(ガラッィア4・19参照)とマリアがいわれるかのようです。

イエズスは、マリアを通じて、この世においでになりましたが、それと同様に、マリアを母とも女王とも認める人にとって、イエズスは、マリアの実、マリアの傑作となります。

57 最後に、イエズス・キリストの次に、マリアは、人々のために、なくてはならないお方です。

マリアは、その純粋な信仰をもって、その人の精神を照らし、その愛徳をもって豊かにし、その清さをもって、その母性愛をもってその人を高め、富ましてくださいます。

マリアがおこなってくださる不思議な恵みを経験していないなら、だれがそれを悟れるでしょう。

学問があり自愛心でいっぱいの人にとっても、また、この信心をする一般の人にとっても、そんなことはあり得ないと考えがちです。

58 神が、はじめて、けんそんと、かくれた生活のうちに、マリアを通じて、この世に来られたように、今度もまた、すべての人の王となり、そして、教会が待ち望んでいるように、生きる人と、死んだ人とを裁くために、再びおいでになるのも、またマリアを通じてであると、どうして断言できないでしょう。

イエズスが、どういうふうにして、いつ、再び来られるかを誰も知りません。それにしても天と地よりもすぐれた計画をもっておられる神は、人間が夢にも想像できないような時と方法をもって来られるのは確かです。

聖書にいちばん精通している学者でさえ、これについては何も分からないので。じじつ、聖書は、この点について非常に悟りにくいものです。

59 それにしても、わたしは、最後の時と、あるいは多分考えられる時よりも早く、神は、聖霊とマリアの霊にみちた偉大な人々を起こすにちがいないと、わたしは、確実に信じています。

この使徒たちは、聖母に対する、この信心をもって、その使命を果たすでしょう。わたしは、弱い者にすぎませんから、この信心のことを簡単に、そのあらすじだけ述べたにすぎません。

第五章 自己奉献の外的業

60 この信心は、内的業のほかに、外的業もあって、これをないがしろにしてはなりません。

61 第一になすべきことは、特別な日を選んで、マリアのおん手を通じて愛のどれいとして、イエズス・キリストに自分を奉献することです。

そのためには、この日に聖体拝領をし、祈りのうちにすごすようにしなければなりません。

この奉献は、少なくとも、毎年一度、同じ日に新たにしなければなりません。

62 第二の業は、毎年、自己奉献の記念日に、わたしたちの愛のどれいとしての、しるしとして、聖母マリアに、小さなおくりものをすることです。

どれいたちは、自分の主人に対してこのようにする習慣があります。このおくりものは、つぐないの行いか、愛の業か、巡礼か、とくべつな祈りにしてもよいです。

福者マリノが伝えているように、かれの兄弟聖ペトロ・ダミアニは、毎年、自己奉献の記念に、聖母の祭壇の前に行って、公に自分をむち打っていました。

これほどのことをする必要はありません。わたしは、しないほうがよいと考えています。

それにしても、わたしたちがマリアに捧げるものが、ささやかなものであるにしても、けんそんな心と感謝をもってしなければなりません。

63 第三の業は、毎年、とくべつな信心をもって、お告げの祝日を行うことです。

この祝日は、この信心のおもな祝日であって、わたしたちは、わたしたちへの愛のために、マリアの中で人となられたみことばの従順を考え、それを尊敬し、これにならうことがたいせつです。

64 第四の業は、聖母マリアの小さなロザリオを毎日となえることにあります。この小さなロザリオとは、天にまします三回、めでたし十二回からなります。

しかし、これをとなえないと罪になると考えてはなりません。また、聖母マリアのマニフィカトを、たびたびとなえます。これは、わたしたちに伝わった聖母マリアの唯一の歌です。これをとなえるのは、神の恵みを感謝し、新しい恵みを願い求めるためです。

けいけんなゼルニソ師によれば、マリアご自身、聖体拝領の感謝として、これをとなえておられたので、わたしたちもとなえるのは望ましいことです。

65 第五の業は、祝福された小さな”くさり”を首、あるいは腕に、あるいは足に、あるいは腰につけることです。げんみつに言えば、この業をぬかしても、この信心の本質的な部分を少しも、そこないません。

それにしても、この業を軽蔑したり、まちがっているときめつけるのも霊的損害にならないことはありません。

この外的なしるしを身につけるにあたっては、有利な理由があります。

①今まで、わたしたちを縛っていた原罪や自罪の危険なくさりから解放されます。

②イエズス・キリストがわたしたちを実際に自由なものとするために、ご受難のときに結ばれたなわと、くさりを記念する刺激となります。

③「わたしは、愛のきずなで、かれをひいた」(ホゼア11・4)と書いてあるように、愛のきずなを示していて、わたしたちが、いつも愛によって行わねばならないことを思い出させるために役立ちます。

④わたしたちが愛のどれいとして、イエズスとマリアに従属していることを思い出させるために役立ちます。じじつ、どれいは、くさりで縛られています。

イエズスとマリアの愛のどれいとして身を捧げた人は、これらの”くさり”を身につけるのを名誉と考えていたのです。かれらは、トルコ人のどれいのように、くさりを公に、ひきずって歩くのをゆるされていないのを残念に思っていました。

おお貴重なくさりよ!それは、地上のすべての王たちの黄金のくさりと真珠よりも、ずっと光栄にみちたものです。なぜならこれによって、わたしたちは、イエズス・キリストと最も聖なるおん母にむすばれ、それは、この従属関係のしるしと紋章だからです。

これらの小さなくさりは銀でないなら、鉄のものにして、らくに運べるようにしなければなりません。これらのくさりは、一生涯にわたって、決してはずさないで、裁きの日まで、身につけることができるようにしなければなりません。

最後の審判でラッパがひびきわたる時、地から出てくる骨が、まだ残っている愛のどれいの”くさり”で結ばれているとしたら、これを忠実に身につけた人は、どれほど大きな喜びと光栄と勝利をうけることでしょう。

このことを考えるだけで、これを身につけるのは、つごうが悪くても、決してそれを、はずさない大きな刺激となります。

祈り

イエズスに対する祈り

66 最愛のイエズスよ、あなたの最も聖なるおん母を、あなたのご威光のみ前にわたしの弁護者とし、わたしのこの上もない貧しさをおぎなうものとしてくださったことを心から感謝いたします。

わたしをマリアのどれい(しもべ)にするために、マリアに対する信心の恵みを感謝いたします。

ああ主よ、これほどみじめなわたしに、これほどよい母がなかったなら、かならず亡びてしまったでしょう。

そうです、マリアは、すべてのことのために、あなたのみ前でわたしに必要です。わたしがこれほどあなたをぶじょくし、毎日ぶじょくしつづけているから、あなたの正しいおんいきどうりを和らげるために、マリアは必要です。

あなたの正義による永遠の罰をさけるために、マリアは必要です。あなたをながめて、あなたと話し合い、あなたに祈りをささげて、あなたに近づいてあなたの気にいるものとなるために、マリアは必要です。

一言でいえば、いつもみ旨をはたし、すべてにおいてあなたの最大の光栄をさがすために、マリアは必要です。

ああ、あなたがわたしに示してくださったこのおんあわれみを、わたしが全世界に知らせることができましたら!

マリアのおん助けがなかったら、わたしはすでに亡びたに違いないことを、すべての人に知らせることができましたら!この大きな恵みのためにふさわしい感謝を示すことができましたら!

マリアはわたしのうちにおいでになります。おお何という宝!何という大きな慰め!

これからわたしは、全部マリアのものにならないなら、何と大きな忘恩でしょう!

わたしの最愛の救い主よ、そんなことになるより、むしろわたしは死んだほうがましです。

全部マリアのものにならないなら、わたしは死を選びます。

十字架のもとに福音史家ヨハネのように、わたしはマリアを、幾度となくわたしの宝としました。わたしは、幾度となくわが身をマリアにささげたいのです。

しかし、もし、あなたが望むまえにわたしがこの奉献をしなかったなら、ああ、わたしの愛するイエズスよ、この奉献を、お望みのままにします。

もし、わたしの魂と体のなかに、この尊い姫君にふさわしくないところがあったら、これをわたしからとり去って遠く投げすててください。なぜなら、マリアのものでなければ、あなたにもまた、ふさわしくないからです。

67 おお、聖霊よ、すべての恵みをわたしにお与えください。まことの生命の木である愛すべきマリアを、私の心に植え、養い、水を注いで、世話してください。この木が成長し、花咲き、ゆたかに実りますように。

おお、聖霊よ、マリアに対する深い信心と、熱烈な愛を注いでください。わたしが、マリアのふところにだきしめられ、そのおんあわれみに常によりすがりますように。

それはあなたが、マリアを通じてわたしのうちにイエズス・キリストを育て、“みちみちたキリストの背丈にまでいたる完全な人間をつくるためです”(エフェソ4・13)。アーメン。

 マリアに対する祈り

68 めでたしマリア、あなたは、永遠のおん父の最愛の娘、神のおん子の感嘆すべきおん母、聖霊の忠実な花嫁。

めでたしマリア、わたしの愛するおん母、わたしの愛すべき先生、わたしの力づよい女王、わたしの喜び、わたしの栄光、わたしの心と、わたしの魂!

あなたは、あわれみによって、すべてわたしのものであり、わたしは、正義によって、すべてあなたのものです。でも、まだ十分にそうではありません。

それで、わたしは、自分のため、他人のために何も保留することなく、永遠のどれいとして、再びわたし自身を完全にあなたにゆだねます。

わたしの中に、まだあなたのものでないところを、ごらんになったら、どうぞそれを、ご自分のためにお取りになってください。わたしの中にある神のみ心にかなわないことをすべて亡ぼし、根こそぎにし、全滅してください。それは、神のみ心にかなったものをすべて、植え、建て、つくるためです。

あなたの信仰の光が、わたしの精神の暗闇を照らし、あなたの深いけんそんが、わたしの高慢さのかわりとなり、熱烈な観想のあなたの精神が、心を散らすわたしの想像の不注意を遠ざけますように。

たえず神を仰ぎ見ているあなたの心にならって、神のことをいつも思い出し、あなたの愛の熱烈さが、わたしの心の冷淡さと冷たさをもやしつくし、わたしの罪があなたの善徳にかわり、あなたの功徳が、わたしの飾りとなって、神のみ前で、わたしのたりないところを補いますように。

最後に、わたしの最も愛すべき、やさしい母よ、できるなら、わたしに、あなたの精神をもたせてください。こうして、イエズス・キリストを知り、そのために、あなたのように清い熱烈な愛をもって神を愛するあなたの魂、あなたの心をお与えください。

69 わたしは、まぼろしも、示しも、楽しみも、慰めも、霊的慰めまでも願いません。

暗闇なしに明らかに見ること、にがみなしに完全に楽しむこと、どんなはずかしめもなくおん子の右に光栄のうちに、勝利を得ること、絶対的な権利をもって、そのうえ、誰にも妨げられないで、天使たちと人間と悪魔に命令をくだすこと、何も保留されることなく、神のすべての宝を自由自在にすることは、あなたの特権です。

これこそ、あなたに与えられ、あなたから決して取りさられることのない、あなたのよりすぐれた特長です。それは、わたしにとって最大の喜びになります。

地上における、わたしの遺産として、あなたが経験なさったこと以外に、わたしは何も望みません。

すなわち、何も見ないで、何も味わないで、無味乾燥のときにも信じること、被造物からの慰めなしに、喜んで苦しみを耐えしのぶこと、疲れることなく、たえず自分自身に死ぬこと、あなたの最も小さなしもべの一人として、どんな利益も要求しないで、死ぬときまであなたのために沢山働くこと、これが、わたしの望みです。

おんあわれみだけによりすがって、わたしが願う唯一の恵みは、一生涯のすべての日々、すべての瞬間に、わたしが、あなたに三回アーメン(承知します)と、いえることです。

あなたが地上に生きておられた時になさったすべてのことに対して、アーメン。あなたが、わたしの霊魂の中で働かれるすべてのことに対して、アーメン。わたしのうちに今も永遠にもイエズス・キリストを完全にほめたたえるために、あなた以外に、なにも望みませんように、アーメン。

むすび 命の木

70 すなわち、マリアが、わたしたちのうちに生き、支配して頂くための方法。

イエズスのおん血によってあがなわれた霊魂よ、わたしが、今までいったことを聖霊にみちびかれて理解したでしょう。そのことを神に感謝してください。このことは世間のわずかの人だけが知っている秘密です。

もし、あなたは、マリアの畑に、福音書がいっているように、かくれた宝、貴重な真珠をみつけたなら、それを買うために、すべてを売ってください。

神だけをみいだすために、自分自身を完全にマリアにまかせ、喜んで自分を放棄してください。

わたしが説明してきた信心は、命のまことの木にあたります。聖霊が、あなたの心に、これをお植えになったのなら、あなたは全力をつくして、これを養い、適当なときになったら、みのらせるようにしなければなりません。

この信心は、福音書にある“からしだね”のようなものです。それは、種の中で、いちばん小さいものであるにしても、非常に大きく成長して、空の鳥、すなわち選ばれた人々が、その枝の中に巣をつくり、酷暑のときに、そこで休み、野獣から守られます。

では、ここで、この木を養う方法を教えましょう。

71 ①この木がひとたび信者の心の中に植えられたなら、人間からの、なんの支えもなしに、自由に風にあたりたいのです。

この木は神から植えられたものであるからこそ神に向かって枝をのばします。このためにどんな被造物の助けも必要としません。かえって、被造物の助けは、自由に伸びるのを妨げる危険さえあります。また、自分の自然的な“たまもの”や、人間の賛成や助けによって命の木を支えることも可能です。

それで、ひたすらマリアにだけよりすがって、そのおん助けだけを、支えとしなければなりません。

72 ②この命の木を植えられた霊魂は、よい庭師となって、常にこれを守り世話してあげねばなりません。なぜなら、この木は生きていて、命の実を結ばねばならないからです。それで、たえず注意して、これを養い成長させねばなりません。

ほんとうに完全になりたいと望む霊魂の世話は、次のようにします。すなわち、たびたびその目標について考え、それだけを自分の大切な仕事にすることです。

73 そしてまた、“いばら”と“あざみ”を根こそぎにしなければなりません。もしこれを怠ったら、この木を窒息させて、みのりを妨げることになるのです。

具体的にいえば、犠牲心と自己放棄によって、無益な楽しみと、空しい世間的な用件を砕いたり、刈り込んだりするように、いつも注意しなければならないのです。

あからさまにいうなら、毎日の十字架でもって肉欲をおさえ、専心、五感をつつしむようにしなければならないのです。

74 ③昆虫と、寄生虫が命の木に損害を加えないように、気をつけなければなりません。

みどりの葉を食いつくし、みのりの美しい希望を破壊する寄生虫は、自己愛と、ぜいたくな生活に対する執着です。

なぜなら、自己愛と、聖母への愛は決して、あいいれることは出来ないからです。

75 ④野獣が近づくのも妨げねばなりません。野獣とは、大罪のことです。大罪を犯してしまったら、命の木を死なせる結果になります。

小罪さえも、この木にふれてはなりません。もし意識して犯した場合は、小罪でも大きな危険になります。

76 ⑤この木には、たびたび水を注がねばなりません。それは、信心業、告解、聖体拝領、個人的、あるいは共同体でする他の信心業を熱心にすることです。そうしないなら、木は実をつけることができません。

77 ⑥風がこの木をゆさぶったり、動かしたりしても心配してはなりません。なぜなら、いざないの風がその木を倒したり、霧と寒さが、この木を襲うのは、やむをえないことだからです。

つまり、マリアに対するこの信心は、攻撃されたり反対されたりすることはさけられないことです。それにしても、忍耐してこの木を守るなら、何も心配することはありません。

78 あなたの中に、植えられた命の木を聖霊によって、今いったようにして養うなら、間もなく、それは、高く成長して、空の鳥さえもそこに住むようになるでしょう。

この木は、こうして立派な成長をとげて、適当なときに、きっと恵みの実をむすぶでしょう。その実とは、マリアのただ一つの実、愛すべきイエズスです。

マリアという命の木を植えていただいた霊魂は、幸せです。その木が成長して花を咲かせることになれば、その霊魂はもっと幸せです。

でも、この実を味わい、その時まで、そして、永遠にいたるまで、この木を保存する霊魂は、なおさらにすぐれた程度に幸せです。アーメン。

「この教えをもっている人は、忠実にそれを守りますように」。

おわり。

聖マリアの秘密 聖モンフォール著 デルコル神父/江藤きみえ共同訳 愛心館

第一部 聖母マリアを通じて聖徳をめざす義務について

第二部 聖マリアへのまことの完全な信心

祈り、結び