第6書 8章 十字架につけられる

カルワリオの山に頂きに御子は到着しました。カルワリオ山は、最も重い罪を犯したものが処刑される場所であり、悪臭が満ちている場所です。イエスが山頂に着かれたとき疲労困憊し、傷だらけ、引き裂かれ、腫れあがり、見る影もない有様でした。聖母は、御父に祈ります。「主なる永遠の神よ、あなたは御独り子の御父であられます。御子は永遠より生まれ、真の神、あなた御自身であります。私の胎内で人となられ、その人性のため、今御苦しみになります。私は御子に、乳を含ませ、育て、母として愛しますが、今母としての権利をあなたに返し、御子を人の救いのために、犠牲として捧げます」。聖母は御子を犠牲にすることで神に一致しなければなりませんでした。処刑人たちは御子から縫い目のない衣服を剥ぎ取ります。衣服は御頭の上に乱暴に引っ張り、茨の冠も一緒に引き上げられます。冠は壊れ、いくつかの棘は引き抜かれ、他の棘は突き刺さったままになっています。衣服を剥がすとき、衣服にこびりついた傷が開き、すごい痛みを引き起こします。主は祈られます「永遠の御父よ、あなたのみ旨に従い、人々の救いのためにしてきた全てのこと、そして私自身の全てをあなたに捧げます。私と共に、私に仕え、私に倣い、私の死まで付き添う御母と、御母の愛、徳、悲しみ、苦しみ、そして私の使徒たち、聖なる教会と全ての信者、そして全てのアダムの子孫を捧げます。私の望むことは、全ての人のために苦しみ、死ぬことです。全ての人が私に従い救われ、人が悪魔の奴隷でなくなり、あなたの子供、私の兄弟となり、私の功徳により獲得する恩寵を相続できますように。貧しい者、困っている者、この世から嫌われている者や、正義の人たちが、あなたの永遠の光栄に属することを願います。それだけではなく、あなたに罰せられるかもしれない人々も、あなたの審判から免除されることを望みます。あなたは私の父であり、全ての人の父となられました。私を迫害する人々も、私の死についての真理をあなたから教わることができますように。何にもまして、あなたの御名が崇められることを、心から願います」。処刑者たちは、主に十字架の横木の上に両腕を伸ばすように命じます。そして釘の穴をあけるための印をつけますが、わざと少し外側に印をつけます。一人の処刑者は御手に釘を打ちこみます。もう一人の処刑者は、わざと御手の当たる外側に穴をあけたので、御手首に鎖をかけ外側に勢いよく引っ張ります。そのため御子の御肩は脱臼されます。そして御手に釘が打ちこまれます。次に処刑者たちは、御両足を重ね、同じ鎖を御足首にかけ引っ張りながら大きな長い釘を打ちこみます。主の御体は縦横に引き伸ばされ、身動きすることができません。処刑者たちは十字架の下端を掘った穴の上にたてます。このようにして十字架とともに主を建てます。見ている群衆は叫び声をあげます。親切なものたちは嘆き、質問したり、恐ろしさと哀れさで首を振り、他のものたちは自分の身の危険を感じたり、また他のものたちは主を義人であると宣言したりします。人々の感情は、聖母の心に矢のように刺さります。御子の御傷は、御体の重さのため大きく開き、御血が溢れでてきます。イザヤが述べたように、御血は私たちの喉の渇きを止め、私たちの罪の汚れを洗い清めます(イザヤ十二・三)。処刑者たちは二人の盗賊を十字架につけ、救い主の両側に立てます。ファリサイ人たちや祭司たちは頭を振り、嘲り笑い、石や土を投げつけ言います。「おい、神殿を壊し、三日以内に建て直すものよ、自分を救ってみろ。他人を治したのに、自分を救えないのか。神の子だったら降りてこい、そうしたら信じてやろう」(マタイ二十七・四十二)。一人の盗賊もそれに合わせて言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ二十三・三十九)。十字架の木は、御子の玉座です。この玉座の上で、主は御自分の教えを私たちに確認してもらうかのように仰せになります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二十三・三十四)。主は、敵を赦し、愛するだけでなく、自分たちの神を迫害し、涜聖し、十字架にかける人たちを、知らないためと御父に弁解しておられます。ああ、理解を越える愛!ああ、考えのおよびもつかない忍耐!二人の盗賊の一人は、主の神秘に気づきはじめ、聖母の御取り次ぎも加わり、十字架上の主の御言葉の意味を神から教えてもらいます。良き盗賊は自分の罪を悲しみ、悔やみ、もう一人の盗賊に言います。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。私たちは自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」。そして主に言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、私を思い出してください」(ルカ二十三・四十二)。よき盗賊、百人隊長、その他、十字架上のイエス・キリストに信仰を告白した者たちの間に救いの結果が表われ始めます。主は、よき盗賊に言います。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。次に十字架のそばに立っている聖母と聖ヨハネに語りかけます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。「見なさい。あなたの母です」。「婦人」という言葉は、あらゆる女のなかで祝された女、アダムの娘たちのなかで最も思慮深い娘、主に対する奉仕に欠けることなく、主にたいする愛において最も忠実な女を表します。「私が御父のところに戻るとき、あなたは私の愛する弟子の世話になる。愛する弟子はあなたの息子になることを主は意味され、聖母にはそれがはっきりと分かります。聖ヨハネも理解し、最も大切な御母の面倒を見ることになり、聖母は謙遜に新しい息子を養子にします。時は、第九時近くとなり、天地は暗くなり、荒れ狂う様子を見せます。主は、大声で叫ばれます。「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」(マタイ二十七・四十六)。この御言葉で、主の人類のための愛が永遠無限であることがわかります。神は人類の救いのために、主が極度にお苦しみになることを許します。主の御苦しみは、全ての人を救いたいのに、主に反抗するものたちは救われないことです。この御言葉をヘブライ語でおっしゃるので、ヘブライ語を理解できない人たちは、この言葉が「エリ、エリ」から始まるので、預言者エリアを呼び出しているのかと思います。「わたしは、渇く」で、主は、アダムの子孫たちが、主の功徳によりもたらされた赦しと自由を受けとるように渇望しておられますが、大勢のものたちが、この恩寵をないがしろにしています。主は、人々を救うためなら、もっと苦しみたいのです。聖母は、この御言葉に心を合わせ、貧しい者、困っている者、身分の低い者、世から嫌われている人たちなど全ての人が救い主のところに集まり、主の渇きを少しでも癒して欲しいと呼びかけます。しかし、不信なユダヤ人たちや処刑者は頑固です。一人の処刑者が海綿に酢をふくませ、嘲りながら主の御口元に持っていきます。主の「成し遂げられた」(ヨハネ十九・二十八)の御言葉で、主の御降誕、御受難とご死去という御業の完成と、太祖からの預言を主が成就させたこと、主はどれだけ、御父に忠実であったか教えます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ・四十四)とおっしゃった後、死を通して永遠の御父の不死の生命に入られます。全てを主と共にされた聖母は、主の死の御苦しみも体験されました。聖母が、その御苦しみによりお亡くなりになることがなかったのは、神の特別な恩恵によるものです。聖母の体験された死の苦しみは、全殉教者たち全員の苦しみを集めたよりももっと醜いものでした。