祈りの偉大な力 第2部2章

第二章 神は全ての人に恩恵を与える。義人たちには掟を守るための必要な恩恵を、罪人たちには悔い改めに必要な恩恵を。

一 根拠
神は全ての人の救いを望んでおられる。救いの成就のため、神は不可能なことを命じられない。神が命じられるときは、可能なことをするようにお求めになる。不可能なことを要求されるときは、それを助けてくださる。神は全ての人に掟を守るための恩恵を与えている。その恩恵に頼ればそれを避けることができるし、その恩恵を拒むものだけが身を滅ぼす。本人が邪魔しないかぎり、救いに必要な恩恵を誰にも与えることが神の意志である。御父に引き寄せられなければ、誰も回心できないが、引き寄せられなかったことを誰も口実にすることはできない。神は常に戸口にたち、肩を叩いておられ、神の声は響き、人のこころに語りかけているからである。「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入る」(ヨハネ黙示録三・二十)。主は、ご自身の恩恵なしには人間はその扉を開けることが出来ないことを御存じであり、人が望むときに、その扉を開く恩恵を、主がすでに人間にお与えになっていたのでなければ、主がいくら人の心の扉を叩かれても無駄である。神は誰にも救いの恩恵を与えている。それに応じるか否かは各人の自由である。寛大な神は恵みを、それを迎える用意のあるものたち全員にお与えになる。神の恩恵をいただけない人はおらず、全ての人がそれを与えられる。主が来て、戸を叩くなら、主がお入りになりたいからである。しかし、主がお入りにならない、あるいは主が私たちのうちにとどまらないことがあるのは、私たちの方にいつも非があるからである。罪人がその罪を悔い改めないとする。彼を呼び、悔い改めようとする神のゆたかな慈愛を彼は軽く見るのである。神は罪を憎むが、罪人が地上にいる限り彼を愛し、彼を救うための援助を惜しまない。神は最も頑固な、最悪の罪人たちにさえ、誘惑に勝つ恩恵を与えることを拒まれない。新たな罪を避ける助けを、直接に、あるいは(祈りなどの)媒体を通して、神は常にくださる。こうして、神からの大きな援助を受けて、罪人たちは罪を避けるだろう。神がすべての人が悔い改めることを望んでおられるので、そのために必要な恩恵がなんであれ、神はそれをすべての人に与えてくださる。
二 頑なな罪人たち
人間は、恩恵によって、その本当の目標へ向かう道に呼び戻されなければ、どんな罪も避けることはできない。聖化の恩恵なしに生きる人間は罪をさけることはできない。ここで聖化の恩恵を言うのは、それだけが人間を正しい道に歩ませるものだからである。罪人はあらかじめ守られているのでなければ、つまり、あらかじめ恩恵によって変えられ、神を究極の目標とする正しい道に立てられているのでなければ、人間は新たな罪を犯すことが避けることができない。神の恩恵は誰にも与えられる。神は全ての人が救われるのを望んでおられる。光を受けない人がいるなら、その責任はその人自身にある。その人は自分の方から照らす光に身を背けているのである。他方、自分の頑なさから救われず、神のみ旨に従えないほど恩恵から見離された、絶望的な罪人はいない。これは恩恵の助けなしには決してありえないことである。この世では、人間が自由である限り、自分の罪を嘆くことによって恩恵を備えることができる。そして罪を悔いることは、恩恵なしにはあり得ない。またこの世では、頑なに悪にはまりこんで、そこから脱出することに協力できないような人はありえない。協力するとは、恩恵の助けに応ずることである。神の側では、その恩恵をすべての人にくださる用意がある。ただ自分のうちにそれを妨げる障害物をおくものだけが、その恩恵にあずかれない。だから罪を犯しても、弁解の余地がないのである。神は、全ての人に、たとえ彼らが不信仰で、頑なな罪人であっても、掟を守るのに十分な援助を差し伸べるだけではなく、実際に与えてくだっているからです。神はそれを即座に与える場合もあるし、少なくとも間接的な方法で与える場合もある。悪魔たち、地獄に堕ちた人たちの罪だけは、改悛によっても消せない。一方、この地上には悔い改めることのできない罪はない。神は全ての人に恩恵をお与えになる。だから「罪人のなかには、神に完全に見離されたものがいる」と教えたりすることは、神を誹謗することになる。愛なる神は常に全ての人に、罪を避けるために必要、十分な助けを、即座に或いは間接的な方法で与えられる。間接的な方法とは、罪を即座に避けさせるための、その時々の助けを受けない人がいることは確かだからである。しかし彼らにも支援があり、それによりさらに大きな助けを神に期待することも可能である。願いの祈りをすれば、彼らは罪を避けることができる。全生涯にわたって神の助けが全く受けられずに自分の救いに絶望するほど、神に見離される人はいない。この地上の生で、神から見離された人はいない。もし、罪人が神の恩恵に見離されていたならば、その罪を彼の責任に帰することはできないし、その罪人は自分に果たすことが不可能な義務の履行を求められたと思うだろう。しかし、絶対に避けられないことについては、誰も罪とされない。できないことをしなかったという理由で、罪ありとすることほど不当なことはない。人間だって、誰かに不可能なことを命じる掟を課せば、残酷だと非難される。神はそのようなことは決してしない。しかし、掟を守るための必要な恩恵を、自身の怠慢から求めない時は別である。正確に言えば、それは戒めを守るのに必要な直接的恩恵をいただくためにお祈りという間接的恩恵を活用することを怠る人を指している。神は不可能なことを命じられない。神が命じられるときは、可能なことをするようにお求めになる。神が、不可能なことを求められる時は、それが可能になるように助力をくださる。罪から抜け出せることになかなか協力できないものは、彼らの転落と悪い習慣によって、精神が鈍化し、意志は神の意向に鈍感になり、感覚的な快楽に執着する。その結果、意志は精神的賜物に無関心になり、軽視するようになる。その悪い習慣によって、情念と情欲が魂を支配し、主からの光と招きが効果を失う。それは魂が自らの過ちで、それを軽くみて、悪用したからである。その上、こうした神からの光や招きに嫌悪さえ抱くようになる。感覚的陥落を邪魔されたくないからである。これが罪人が陥っている精神的遺棄の状態である。この惨めな状態からでて、正しい生活に戻るのは極めて難しい。しかし、この頑なな罪人たちも少なくとも間接的な方法、即ち祈ることによって豊かな助けを受け、悔い改め、救いの道に立ち返ることができる。この地上の生涯で、祈りの恵みは誰にも与えられている。もしそうでないなら、頑なな罪人たちは、自分が神から完全に見捨てられたと思い、一層絶望のなかに沈み、悪に耽る他ないだろう。彼らはどんな恩恵も剥奪されていると思い、罰を避ける望みを絶たれるであろう。