祈りの偉大な力 第1部 第1章

第一章 祈りの必要なこと

一 救いに必要な祈り
わたしたちは救われたいならば、祈らなければならないことを、聖書ははっきりと教えている。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」 (ルカ十八・一)。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ二十六・四十一)。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ七・七)。 聖書が示しているように、救いを実現するために、祈りは絶対不可欠なものであり、祈りなしには、救いに必要な恵みをいただけない。その理由は明らかである。恩恵の助けなしに、私たちはどんな善も出来ないからである。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ十五・五)。それどころか、私たち自身の力では、善を望むことすらできない。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです」(二コリント三・五)。「(務めにはいろいろありますが、)それをお与えになるのは同じ主です」(一コリント十二・六)。「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル三十六・二十七)。神がその恩恵により私たちに善を行わせてくれるのでなければ、私たちはどんな善もできない。人間は自分の救いを実現するには全くの無力な存在なのだ。神がそう望まれたのだ。人間が持っているもの、持つことができるすべては恩恵の助けによるのである。しかし、この恩恵の助けを、神は通常は祈る人にしか与えないようにされたのである。信仰の招きとか、悔い改めの呼びかけといった、私たちの側からの働きかけがなくてもやってくる最初の恩恵もあり、神がそれを祈らない人々にも与えられるのは本当である。しかし、その他の恵み、ことに最後まで恩恵の状態にとどまる堅忍の恵みを、神は祈る人にしかお与えにならない。信者は救いに必要な恵みをくださいと神に願わなければ普通救われない。救いの実現のために闘い、勝たないといけないが、神の助けがなければ、私たちは多くの敵からの執拗な攻撃に抵抗することは出来ない。この神の助けは祈りに対してしか与えられない。従って、祈りなしには救いはないのである。主は、その永遠の御計画のなかで、私たちにすべての恩恵を与えようと決定されたが、私たちの祈りがあってはじめてそれをお与えになる。私たちに祈りが義務づけられているのは、救いをもたらす恩恵をいただくには、それを私たちが神に願わなければならないことを私たちに理解させるためである。神はその恵みを与えたいと望んでおられるが、私たちがそれをお願いしなければくださらない。

二 誘惑に出会ったときの祈り
祈りは、私たちが敵と闘うために必要な武器である。祈りを怠ることは自分を滅ぼすことである。私たちが、闇、悲惨、危険のなかにあるとき、神のほうに目をあげて、祈って神のあわれみによりすがって救いを願う以外に、私たちの希望はない。そして祈ることで、私たちは敵に打ち勝つための必要な大きな助けをえることができる。神は不可能なことを命じられない。神が命じられるときは、可能なことを命じられるのであり、すべてが可能となるように私たちを助けてくださる。つまり、私たちが祈ることで、神は私たちにはできない筈のことをする力をお与えくださる。神のすべての掟を守ることなど到底できないと私たちに感じさせることは、私たちが簡単な事は神が下さる通常の恵みによって行い、難しいことは祈ることによっていただける、より大きな助けによって果たすように、神が用いられる手段なのである。しかし、どうして神は私たちに私たちの力に余ることをお命じになるのだろうか?私たちの力に余る掟によって、それを守ることができないことを悟った私たちが、祈りを通して私たちの弱さを癒してくださる神の助けを乞い願うためである。祈る必要があるということが、私たちにとってどんなに有益かを主はご存じである。それは私たちを謙遜にし、私たちのうちに信頼の心を培う。私たちが太刀打ちできないような敵の襲撃にあうのを神がお許しになるのは、私たちが祈って神の憐れみを乞い、敵に抗する力をいただくようにするためである。特に、淫らな誘惑に襲われたとき、神により頼むことなしには誰もそれに打ち勝つことができないことを承知すべきである。貞潔という徳は、神がそれを下さるのでなければ私たちには実践する力がない。神は願うものしかその力をお与えにならない。しかし、それを願うものには必ずお与えになるのだ。だから、貞潔にせよ他のどの戒めにせよ、私たちは守ることが出来ないなどと主張してはならない。その力がないなら、どうしてそれを願わないのか?願わないから、その力がないのだ。忠実な神は、私たちが自分たちの力にあまる試みを受けるようにはなさらない。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(一コリント十・十三)。私たちは弱いが、神は強い。私たちが神の助けを乞い願うなら、神はその力を私たちに分けてくださり、私たちにはすべてが可能になるのだ。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ四・十三)。だから、誘惑に屈する人は言い訳が立たない、それは彼が祈りを怠ったことに他ならないのだから。彼が祈っていたら、敵に負けることはなかったであろう。

三、第一章の結論
祈るものは必ず救われ、祈らないものは間違いなく滅びる。子供を除き、全ての福者は祈りによって救われたのである。地獄に堕ちたものは祈らなかったからである。彼らも祈ってさえいたら、滅びはしなかったであろう。それが彼らの地獄での最大の絶望の種となるであろう。不幸な人たちである!彼らも必要な恵みを神に願いさえしていれば、いとも簡単に救われたであろうに、もうそれを願い求めるには遅すぎるのだ。