祈りの偉大な力 第2部1章

前書き

祈りの恩恵は全ての人に与えられている。恩恵はどのように働くか
救いを得るためには祈らなければならない、それが原則である。その結果、別のことが確実になると思われる。つまり誰もが、他の特別な恩恵がなくても、今のままで祈れる神の助けをいただいているということであり、そして祈ることで、掟を守るため、永遠の生命を得るためのすべての恩恵が頂けることである。だから、滅びる者は、救いに必要な賜物をいただくことが出来なかったから滅びたなどと嘆くことは決してできないはずである。自然的次元では、神は人間がこの世に裸で生まれ、生きるのに必要な多くの物に事欠く状態で来ることを望まれた。ただ、神は人間に手と知性をお与えになったので、人間は衣服をまとい、何でも必要なものを得ることができる。超自然的次元でも同じである。人間は自分の力では永遠の救いを得られないように生まれてくるが、人間を愛する神は、祈る恵みを誰にもお与えになる。だから、人間は掟を守るために、そして救われるために必要などんな恩恵でもいただけるのである。この問題を扱う前に、二つのことを明らかにしなければならない。第一に、神が全ての人に救いに必要な恩恵を与えられること、それに協力することが救われるということである。

第一章 神は全ての人の救いを望んでおられる。それ故に、イエス・キリストは全ての人のために死なれた。

一 神は全ての人の救いを望んでおられる。
聖書で、「そこで、まず第一に勧めます。願い事を(‥‥)すべての人々にささげなさい」と言った後、「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ二・一~四)。聖パウロがすべての人々のために祈りなさいと勧めるのは、神はすべての人々の救いを望んでおられることを信じているからである。神はすべての人の救いを、先行的意志に望んでおられる。先行的意志とは全ての人を救われたいと願う神の意志である。しかし、正義という善、罪に対する罰の必要性を考えて、神は全ての人を救うことを望まない。これが結果的意志である。神は、悪を行う人たちを見て、その正義を全うするために、彼らを罰したいと望まれ、結果意志では、神は彼らを救おうとしない。例えるなら、「裁判官は先行意志では全ての人が生きることを望むが、結果的意志では殺人者には絞首刑を科すことを望む。同じように、神も先行的意志では全ての人が救われることを望んでおられるが、結果的意志ではその正義を全うするために罪に定められる人がいることを望まれるのである」。また、神は全ての人の救いを望んでいるが、本人が望まないならば救わない。神は誰にも強制しないし、各自の自由を尊重されるからである。
二 イエス・キリストの死は全ての人を救うためである
「人の子は、失われた者を救うために来たのである」(ルカ十九・十)。「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(一テモテ二・六)。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(二コリント五・十五)。「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです」(一テモテ四・十)。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(一ヨハネ二・二)。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」(二コリント五・十四)。イエス・キリストはすべての人のために死んでくださったことを聖書で証言しています。そして、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ八・三十二)と、私たちを救うために御子をくださった神が、救いの恩恵を拒むはずはないことを聖パウロははっきり教える。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ三・十七)。医者にとっては、病人を癒すことが目的である。医者にとってはというのは、全ての人の救いを本当に望んでおられる神も、それに抵抗する人を癒すことはできない。かくも大きな代価を払って私たちを贖ってくださったあのお方は、私たちが滅びるのを望まれない。彼が私たちを自分のものとなさったのは、私たちが死ぬためでなく、私たちに生命をくださるためである。私たち皆を贖ってくださったのは、私たちが死ぬためでなく、私たちに生命をくださるためである。弱い人間よ、立ち上がれ。自分は決して幸福になれないなどと言ってはならない。キリストは約束なさった以上のことをしてくださった。何を?お前のために死んでくださったのだ。何を約束なさったか?お前があの方とともに生きることを。
三 洗礼を受けずに死んだ子供たち
洗礼を受けないで、分別のつく年齢以前に死に、滅びる子供たちについて、もし神が全ての人の救いを望んでおられるなら、どうしてこの幼い子供たちは、彼らの罪ではなく永遠の救いを得させる神の助け(洗礼)がないという理由で滅びことがあるのか?地獄に落ちることと、至福にあずかれないことは別である。永遠の至福は全く無償の賜物である。この恩恵を受けないことは罰の結果ではない。幼くして死んだ子供たちは感覚の苦しみの罰も至福直感の喪失の罰も受けない。感覚の苦しみの罰は、被造物を選んだ罪に課せられるもので、原罪にはその罰が含まれていないからである。また原罪は個人的な罪ではない。だから原罪によっては感覚の苦しみの罰は受けないのである。原罪には罪の行為は含まれないからだ。至福直感の喪失の罰について、受洗しないで死んだ子供たちは栄光には与らない。しかし、彼らは栄光から除外されていることを苦しまない。彼らは、自分の性質、自分の功徳で、それを求めることは出来なかったからである。この子供たちは、永遠の至福に与らないことを苦しむどころか、彼らの自然的賜物を喜び、彼らが持つ知識、自然的な愛で神を楽しむ。このようにして、子供たちは神の慈しみ、自然の美しさに与ることを楽しむ。そして、この子供たちが栄光のなかで神と一致することからは退けられているにせよ、自然的賜に与ることを通して、神に結ばれている。こうして、彼らは自然的な知識と愛によって神を楽しむことができる。