祈りの偉大な力 第1部第3章

第一部 第三章 祈りの条件

1 必要な四つの条件 

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ十六・二十三)。イエス・キリストは私たちが彼の名において御父に願うことは何でも与えると約束された。しかし、必要な条件を満たして願うことが前提である。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ四・三)。あなたが願っても得られないのは、萎えた信仰で真剣に願っていなかったか、救いに役にたたない財を求めたか、すぐに祈りをやめたかである。祈りが効果が発揮するのに必要な条件が四つある。それは「自分のために、救いに必要なことを、信仰をもって、根気よく願うことである」。
一 他の人のために祈ることの効果について
祈りに必要な最初の条件は、祈りが自分自身になされることである。誰も永遠の生命を他人のためにいただくことは権利上できない。しかし、神の約束によって、私たちが他人に祈りは、その人がそれを妨げない限り、その祈りは絶対的な効果を生む。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(一ヨハネ五・十六)。死に至らない罪とは、罪人がそのままに生きるつもりでない限りという意味で、彼らのために祈るものに回心を約束している。
二 罪人たちのために祈ること
その上、罪人たちのために祈ることは、彼らに大いなる助けとなり、神が喜ばれることに間違いない。だが、真に神への愛に燃える人は誰でも哀れな罪人たちのために絶えず祈るはずである。神を愛するならば、イエス・キリストが罪人を救うために苦しまれたような愛を人々に示さないといけない。救い主は、私たちが罪人たちのために祈ることを望んでおられることを、私たちは真剣に受け止め、神なしに生き、地獄の奴隷となっている人々に関心を持ち、この不幸な人たちが無意識に滅びの道をたどっている悲惨から出られるよう、彼らに光と力をお与えくださいと祈らないといけない。
三 救いに必要な恩恵を願うこと
祈りに対して与えられた約束は、「救いに必要な恩恵」であり、魂の救いにとって必要でない地上的な恵みには適用されない。私たちが地上的な恵みを懇願しても、神はそれを聴きとどけないことがある。それは、愛からであり、神は憐れみをもって私たちに接したいからである。健康で富がある故に罪を犯した人がある一方、貧乏で病気だったからその罪を犯さなかったであろう人が何と多い事だろう!だから、体の健康とか財産、富を願う人に、神は拒むことがある。彼らを愛しているからである。そうした地上的な財は、彼らの神の恵みを失うきっかけか、少なくとも精神的な怠惰をもたらすことを、神は知っているからである。現実の生活に必要な財を神に願うことにたいしては、度をすぎない愛着を持つことは非難されない。いけないのは、こうした地上的な恵みを、あたかもそれが最も大切なものであるかのように願い求め、私たちの全幸福がかかっているかのようにそれに執着することである。私たちはいつも服従の心で、それが私たちの霊魂のためになる場合にのみ、これらの地上的な恵みを神に願わないといけない。神がそれをくださらないときは、私たちへの愛ゆえであり、それが私たちの救いのためにならないこと神はご存知だからだと確信しよう。私たちはしばしば、危険な誘惑から救ってくださいと神に願うのに、神はこれを聴かず、私たちが誘惑に襲われるままにされることがある。そのときも、神は私たちに最大の益を願ってそうなさるのであると考えよう。このとき、神は私たちの祈りに耳をふさいでおられるように見える、もちろん、そうではなく、神はちゃんと聴いておられ、密かに私たちを助け、その恵みで私たちを強め、敵の攻撃から守ってくださっている。私たちを神から遠ざけるのは、誘惑でも、邪悪な思いでもなく、私たちが悪に同意することである。誘惑にあっても、神に助けを乞い、神の恵みでそれに打ち勝つなら、私たちはどんなにか完全の道に進歩し、神との親しい交わりを感ずることだろう!神が誘惑を遠ざけないのはこのためでる。

四 信仰心と堅忍  祈りに必要なその他の条件は、信仰心と堅忍である。信仰心とは謙遜で信頼に満ちた祈りであること、堅忍とは死のときまで続けられる祈りである。謙遜と信頼と堅忍という条件は祈りに最も欠かせないものである。これを一つずつ見ていこう。

2 祈りは謙遜に

神は僕たちの祈りに快く耳を傾けられるが、但しその祈りが謙遜な心からでるときである。神は高慢な者の祈りを聴かれない。彼らは自分の力をあてにするから、神は彼らを悲惨さのなかにおく。聖ペトロも謙遜を忘れたため罪を犯すことを経験した。イエス・キリストは今夜、弟子たちは皆彼を捨てるだろうと告げられた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく」(マタイ二十六・三十一)。ペトロは自分の弱さを認めて、裏切らないように主に助けを願うべきであった。だが、彼はそうする代わりに、自分の力を過信してこう言った。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ二十六・三十三)。これに対し、主はさらに彼に、今夜にわとりが泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと予言なさった。ペトロは自分の思い上がりに気づかず、叫んだ。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ二十六・三十六)。何が起きただろうか?ペトロが大祭司の家に入り、イエスの弟子ではないかととがめられると、彼はまさに三度否定し、そんな人は知らないと誓って言ったのであった。「そこで、ペトロは再び、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した」(マタイ二十六・七十二)。もしペトロがへりくだって、主に忠実の恵みを願っていたら、彼は主を否まなかったであろう。私たちは、神の支えがなければ、どんな罪でも犯すことになるし、恩恵の助けなしには、私たちはどんな善もなしえず、善良な思いさえ抱くことはできない。キリスト者が知るべきことは、自分が無であること、自分には何もできないことを知ることである。このことを知ることで、彼は自分に不足する、誘惑に打ち勝つ善を行うために必要だが持っていない力を、神に絶えず祈り、願い求めるようになるだろう。そうすれば、謙遜に祈る人には何もお断りにならない神が助けてくださり、彼には全てが可能になる。ある日、イエス・キリストがシエナの聖カタリナに語られたのもこのことである。「娘よ、へりくだって絶えず私に恵みを願うなら、どんな徳も得られるとしりなさい」。

3 信頼をもって祈ること

一 信頼が重要で大切なこと
祈ることで神の恩恵を得ようとするとき、必ず聞き届けられると信じて疑わずに祈ることは大切である。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(ヤコブ一・六)。私たちが神の憐れみを信頼すれば神は喜ばれる。それは私たちが、私たちを創造することで世に示そうとされた神の限りのない愛を褒め、称えるからである。私たちは神に寄せる信頼が大きければ、恵みも大きいであろう。大きな信頼は沢山の恵みに値するのである。信頼を持って祈る人はいわば強い強制力を持つので、その人が願うことは何でも神に強制することになるが、神はその強制を好まれ、快く思われる。しかし、祈っても、神を疑うならば、神から何かをいただけると期待してはならない。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」(ヤコブ一・六~七)。彼は何もいただけないだろう。その不当な疑いのせいで、憐みの神も願いをかなえることがお出来にならないのだ。私たちの信頼は揺るぎないものでないといけない。自分の望む恩恵を本当に得たいならば、信じて祈るようにとキリストは勧めておられる。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ十一・二十四)。
二 私たちの信頼の根拠はどこに?
しかし、私は一体何を根拠に、求めるものが得られるという確信を持てるのだろうか?イエス・キリストがそれを約束なさっているからである。「願いなさい。そうすれば与えられる」(ヨハネ十六・二十四)。真理であるかたが約束しておられるのに、どうして騙されるかもしれないなどと思えようか?私たちが祈りを通して願うものをくださると、真理そのものである神が約束なさっているのに、どうして私たちは祈りの効力を疑うことができるのか?神は与えようとしているのでなければ、私たちに願い求めなさいなどとお勧めになるはずはないだろう。これこそ主が何度も教えられたことであり、聖書に繰り返し語られていることなのである。祈りなさい。願いなさい。探しなさい。そうすればあなたの欲しいものが得られる。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ十五・七)。自分が弱く、ある欲望を克服できず、主が私たちに望まれることを果たせないと感じるときは、パウロのように大胆にこう言おう。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ四・十三)。主の助けがあれば、私は敵からのどんな攻撃にもめげず、敵を撃退できるだろう。もし私たちが神に背きそうなときや、他の何か厄介な状況にあって、動転し、どのように振る舞えば良いかわからないならば、次の言葉で神にすがろう。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編二十七・一)。
三 罪人たちの祈り
聖書に「神は罪人の言うことはお聞きにならない」(ヨハネ九・三十一)と書かれているという人がいるだろう。しかしこの聖書の言葉は、敵に復讐するとか、その他のよくない企てを実行するために助けを求めるといった、罪を続ける意志を持つ罪人の願いに関して言われた言葉である。また、罪の状態から出ようとは全然思わずに、自分を救ってほしいと神に祈る罪人についても同じである。その祈りは厚かましく、忌々しいからだ。王にたびたび背いたうえ、さらに裏切ろうとしているのに、その王に恩恵を願いでることほど図々しいことはあるだろうか?このような罪人たちに、主はこう答える。「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」(イザヤ一・十五)。弱さから、あるいは欲望にかけられ罪を犯すものがいる。彼らは敵のくびきの下にうめいている。彼らはこの死の鎖を破り、この惨めな奴隷状態から脱出したいと望んで、神の助けを願う。彼らの祈りは、根気よく続けられさえすれば、神に歓迎される。願うものは与えられる。罪人の祈りは、恵みに値するというものではないが、恵みを勝ち取る力を確実に発揮している。この力は、神の愛に由来する。ダニエルの祈りがまさにそうであった。「神よ、耳を傾けて聞いてください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます」(ダニエル九・十八)。従って、祈りによって恵みをいただくためには、神の友である必要はない。祈りこそが私たちを神の友にするのである。罪人が罪から解放されるために祈るのは、神の恩恵の状態に戻りたいと望むからである。この望みは、神以外から来るはずのない賜物である。神が祈りをかなえてあげたいと思っているのでなければ、どうしてこのような望みを神がお与えになるだろうか?神が赦そうとなさる意志は、罪人の赦されたいという望みとは比較にならないほど強い。どんなに数多く罪を犯した人でも、熱心にたゆまず祈るならば、いただけないものはない。イエス・キリストが特に勧められたのは祈ることである。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ十六・二十三)。あたかもこういっておられるようだ。「さあ罪人たち、くじけないで。あなた方は罪にまみれていても、私の父にすがって願うなら、救いを期待することができる。あなた方は願う恵みに値しないだろう。あなた方が受けるべきものは罰だけだ。だからこうしなさい、私の名で私の父に会いに行きなさい。私の功徳をあてにして、欲しい恵みを願いなさい。私は約束するが、父はあなたの願うものをお与えになるだろう。私はそのことを誓う」。「はっきり言っておく」は、誓いの言葉である。幾度もつまづいた罪人にとって、イエス・キリストの名において神に願うならばなんでもいただけると確信できることほど大きな慰めはないであろう。「何でも与えられるだろう」というのは、永遠の救いに関してである。地上的な富ならば、先に言ったとおり、祈ってもそれをくださらないことがある。しかし霊的な恵みについては、絶対的約束である。だから、神の絶対的の対象である霊的な恵みについては、必ず与えられると確信して願い求めよう。あなたが受けたいと望む以上に、神は恩恵であなたを満たしたいと望んでおられる。だから信頼をこめて願うあなたに神は何かを拒むことができるだろうか?

4 祈りと堅忍

一 祈りには根気強さが必要なこと
このように、私たちの祈りは謙遜で、信頼の満ちたものでなければならない。だが、最終堅忍を、それと共に永遠の救いをいただくにはそれでも十分ではない。個々の祈りによって、私たちは願う恵みをいただく。しかし、最終堅忍をいただくには、絶えず祈ること、それを死ぬときまで続けることが必要である。最終堅忍は、私たちがたゆまず堅忍するように力のあるかたによってでしか得られない。従って、私たちはこの賜物を嘆願の祈りによって受けるにふさわしい者とされ、この賜物を得られるのである。受洗後、天国に入るためには絶えず祈ることが必要である。それこそ私たちの救い主が何度も述べられたことである。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」(ルカ十八・一)。旧約聖書でも同じことが言われている。「何事もあなたがたが絶えず祈ることを妨げないようにしてください」(シラ十八・二十二)。「いかなるときにも主なる神をほめたたえなさい。お前の道がまっすぐであるように神に求めなさい」(トビト四・十九)。使徒パウロもその弟子たちに、祈ることを決して止めないようにと勧告している。「絶えず祈りなさい」(テサロニケ五・十六)。「目を覚まして感謝をこめて、ひたすら祈りなさい」(コロサイ四・二)。「だから、わたしが望むのは、‥‥どこでも祈ることです」(一テモテ二・八)。主にはいつでも私たちに堅忍の恩恵を与える用意があられるが、根気強く祈り求める人にしかお与えにならない。
二 絶えず、最終堅忍を乞い願うこと
堅忍の恵みを一度や二度願うのでは十分ではない。それを得たいと思うなら、死ぬときまで絶えずそれを願わなければならない。ある人がパンを願ったが、その友は彼に何度も願わせてからしか、パンをあげることに承諾しなかったというたとえ話で、主が教えようとしたのもこのことである。「言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ十一・八)。自分にうるさくつきまとう人を追い払うためだけにでも、この友はしぶしぶパンをあげるだろう。無限の愛であり、私たちにご自分の富を与えたいと強く望んでおられる神ならなおさら、私たちの祈りに答えてその恩恵をくださるだろう。そして神は、私たちがうるさがれられるほど願い続けることを望んでおられる。人間はうるさくされることに我慢できないが、神はその反対で、私たちを追い払うどころか、その恩恵を、特に堅忍の恩恵を私たちが執拗に願うことを望んでおられる。そうした強制に神は憤慨せず、逆に安堵なさる。神は、うるさい祈りほど、それだけ一層友情にみちているとお思いになる。だから、堅忍をいただくために、私たちは絶えず神に祈らなければならない。
三 なぜ神は堅忍の恩恵を遅らせるのだろうか?
神が、堅忍を直ちに与えないで延ばされるのは、私たちの信頼の念をお試しになるためである。それが第一の理由である。さらに、私たちが一層熱心に願うようになるためである。大きな恵みは大きな願いの対象でなければならない。あまりに容易に得られた富は、長いこと待ち望んだ富ほどありがたいと思われない。もし、救われるために神の助けが必要ないなら、私たちは簡単に神を忘れてしまうだろう。貧乏人が金持ちの家に行くのは欠乏からである。神は私たちを自分の元にお引き寄せになりたいのだ。神は頻繁にご覧になりたいのだ。そうなればさらに沢山の賜物をお与えになれるからである。だから、救いのための恩恵を私たちの死のときまでに待ってお与えになるのである。私たちの祈りを拒まれることではなく、その果実を先に伸ばされるのである。このようにして、神は目覚めた心を私たちの内に育まれる。私たちを御自分の元に引き寄せたいと望まれるからである。最後に、神がこうなさるのは、私たちが祈り続けるなら、私たちと神とのやさしい絆が一層強められるからである。いつまで祈らなければならないのか?いつまでも、私たちの救いの保証が得られるまで、つまり死ぬときまで祈らなければならない。