1巻 15 愛徳のために行う

どんなことにしろ、どんな人間的な愛のためにしろ、悪をすることは許されない。しかし、私たちの助けを待っている人のために、時には寛容な心をもって、善行の中止をすることもあれば、また、それ以上の善行に変えることもある。そのために、先の善行が失われるのではなく、よりすぐれた善行に変えられることになる。愛徳がなければ、外部的などんな善行も、役に立たないが、愛徳のためにすることは、どんなにとるに足らないことも、大いに効果があるものとなる。神は、行為そのものよりも、意向のいかんを重視される。多くを愛する人の行いは、豊かに実る。良く行う人は、多くを行う人である。自分のためよりも、団体に奉仕する人は、よく行う人である。また、何かをする場合、愛徳から出ているように見えても、邪欲から出ている場合がしばしばある。自分性質、自分の意志、報酬の、または安楽への執着が、人間の行為に入り込んでいないことは、滅多にないものである。ところが、完全な愛徳の人は、どんな場合にも、自分自身のことを求めず、あらゆる場合に、神の光栄が現れることだけを望んでいる。その人は、だれも妬もうとしない。彼は、自分一人の楽しみを求めない。むしろ、どんな楽しみよりも、神において幸せになることを望む。その人は、どんな善も人間に帰せず、すべてを神に帰する。泉のように、すべては神から湧き出すものである。聖人たちは、目的を神に置いて、完全な平和を味わっている。まことの愛徳の炎を、一つでも持っている人は、地上のどんなこともはかないと悟るだろう。